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シリーズ「ヤル気を伸ばす」(その12):上から下へ連鎖するもの

■行動主義か人間性中心主義か

このシリーズ「その4」において、拒食症の患者の例を示しながら、二つのまったく異なる心理療法のアプローチについてご紹介しました。ひとつは「行動療法(行動変容法)」と呼ばれるもので、もうひとつは「ヒューマニスティック(人間性重視)アプローチ」とも言うべき方法です。
改めてその違いについてまとめておきます。

●行動療法(行動変容法)
○基本的に人間を外的な刺激に対して受動的に反応する存在だとみなす。
○代表的な提唱者:B・F・スキナー、タルコット・パーソンズなど
○外発的な治療目標を一方的に押しつけ、その実践を義務づけ、進捗を監視し、従わない場合はペナルティを課す。
○結果、患者は治療者が望まないさらなる不適応行動により、目標に達したように見せかけた。

●ヒューマニスティック(人間性重視)アプローチ
○基本的に人間は誰しも自律性・主体性を生まれ持っているとみなす。
○代表的な提唱者:アブラハム・マズロー、カール・ロジャース、フレデリック・パールズなど
○患者が示す特定の不適応行動にはあまり重きをおかず、患者の話に注意深く耳を傾け、患者の視点から世界を見ようとし、患者の内面で何が起こっているのかに集中する。
○結果、患者は症状とその原因と思われる実際の出来事を結びつけて考えられるようになり、症状が改善された。

お断りしておきますが、行動療法が功を奏する場合もあります。また、行動変容法を用いながらも、なるべく統制的にならないようにすることもできるでしょう。
ただし、統制が原因で症状が出ている場合に、つまり「取り入れ」によってアレルギーや中毒といった症状が出ている場合に、統制的な方法の上塗りで根本的な治癒が望めるかどうかは甚だ疑問です。

このことはまた改めて詳しく取り上げたいと思っていますが、たとえば犯罪者の更生の現場で用いられているのは、ほとんどの場合「行動変容法」です。つまり受刑者は、自分が犯した罪を反省し、社会復帰できるまでに立ち直ったかどうか、あの手この手で試されるわけです。罪を犯した理由、原因、動機については、裁判で裁量されることはあっても、刑務所では考慮されません。実際に反省しているフリをする受刑者はいくらでもいると言います。仮出所を勝ち取れるなら、受刑者は何でもする、といったところです。
この方法で更生したかどうかにかかわらず、受刑者は刑期を終えれば自動的に社会復帰します。そのときに何が起きるかというと、社会的なルールや規範に関して激しく「取り入れ」を起こした人間が、実際にはうまく社会に適応できず、再び不適応的な行動をとってしまう、つまり慣れ親しんだ反社会的行動が再発する、という悪循環です。こういう例は実際に枚挙に暇がありません。実際に、受刑者に統制的なやり方で反省を強いると、かえって再犯を促進させる、という報告もあるのです。
ちなみに昨年、出所者の再犯率が過去最悪の約5割に達したといいます。

これは仮説でも何でもなく実態である、ということを私たちは肝に銘じておく必要があるでしょう。こうした実情を受けて、刑務所の運営をある程度受刑者の自治に任せよう、という試みも始まっています。
ただし、犯罪者更生で難しい点は、犯罪の被害者側はもちろん、社会全体も、加害者に対し、犯した罪に見合う(あるいはそれを超える)罰を与えたい、という心理が働くことです。そのため、どうしても厳しい統制を課す方向へ傾き、かえって不適応行動を助長する、という悪循環から脱却できないのです。つまり、犯罪者更生の現場に従事する人たちは、統制的な方法が逆効果だとわかっていても(わかっていない場合も多いでしょうが)、被害者側や世間が厳しい統制を望んでいるため、どうしても統制的な方法にならざるをえない、という事情があるわけです。また、刑務所は何よりトラブルを恐れるため、どうしてもルールを押しつけ、違反したら厳しいペナルティを課すという方法になりがちです。「受刑者の自律性を支援する」などと言ったらバッシングに遭うでしょう。
しかし、もしそれが原因で出所した受刑者が再び罪を犯し、不要な被害者を増やすことになったら、私たちは他人事として片付けることができるでしょうか? 社会全体が統制的であることによって、あなたやあなたの子どもが明日犯罪の被害者にならないとも限らないのです。
一般に、統制されればされるほど、人はますます統制されないと何もできないようになります。したがって、統制という方法を用いて人を教育したり更生したりするなら、生涯統制下に置く必要がある、ということです。刑務所が統制的な場所なら、受刑者を生涯外に出してはいけない、ということです。学校が統制的な場所なら、生徒を生涯卒業させてはいけない、ということです。
ついでですが、たとえばアメリカでは、「アミティ」という非営利団体がすでに刑務所の自治化を手掛けているといいます。日本でも「PFI刑務所」という、国と民間が協同して運営する刑務所で「アミティ」の実践が少しずつ取り入れられているといいます。
ただし、お断わりしておきますが、「じゃあ、今日からこの刑務所は受刑者の自主的な運営に全面的に任せます」と言ってうまくいくわけではありません。入念に準備し、あるプロセスを経て、慎重にやり方を変えていく必要があるでしょう。たとえば、子どもの頃から激しい統制を受けてきた人間に対し、いきなり全面的な自律性に任せるなら、パニックを起こしても不思議ではありません。

2004年、北朝鮮による拉致被害者の曽我ひとみさんが夫のジェンキンスさんと二人のお子さん(確か女の子二人)を連れて日本に戻ったとき、その女の子二人がインタビューを求められても、「下手なことを言ったら、北朝鮮政府に殺される」と言ってすっかり怯えている姿が印象的でした。
これは、この女の子二人が特別恐がりである、ということではなく、誰でも長年厳しい統制下に置かれればこうなる、ということでしょう。

■自律性と協調性の両立

おそらく、行動主義心理学の問題点は、人間を純粋に受動的なシステムとしてだけ捉えている点にあるでしょう。
ウィルバーも「行動主義は、意識を観察可能な行動として表れる内容だけに還元したことで悪名が高い」と言っています。つまり、行動主義は人間の意識(「心」あるいは「自己」と言ってもいいでしょう)を外面的に観察できる行動からだけ判断しているわけです。
一方、人間性心理学の立場は、たとえば人間が社会的ルールや規範を内在化させるときに、親や教師や上司といった社会化の担い手たちから受ける影響の大きさを認めつつも、人間が本来的に持つ自律性・自発性も同時に前提として考えている、ということです。つまり、人間は誰しも自律性と協調性の両方を兼ね備えている、と見ているわけです。言い換えるなら、人は外的な環境条件に左右されずに自律的・独立的に振る舞いたいという欲求と、反対に環境と相互交流し、その条件に同調するかたちで振る舞いたいという欲求と、ある意味相矛盾する二つの欲求を必ず持っている、ということです。
ウィルバーによれば、人間だけでなく、他の生命体も、いわんや物質さえ、この自律性と協調性の両方を兼ね備えているといいます。ウィルバーはこの自律性を「エイジェンシー」と呼び、協調性を「コミュニオン」と呼んでいます。つまり、このエイジェンシーとコミュニオンの両義性は、人間界に限らず、自然界の普遍的な摂理ということです。
「人間とは、環境からの働きかけに受動的に反応する動物である」とするなら、自律性(エイジェンシー)が阻害され、「人間とは、環境に関係なく自律的に振る舞う動物である」とするなら、協調性(コミュニオン)が阻害されます。実際には、「人間とは、ある文脈においては自律的に振る舞い、別の文脈においては協調的に振る舞う存在である」が正解です。要はバランスが重要で、どちらに偏っても病理に発展します。

■「随伴的愛情」か「非随伴的愛情」か

自分で歩けるようになり、ある程度言葉を操り、他者とのコミュニケーションができるようになった幼児が公園デビューします。
こういう幼児を観察していると、しばらく他の子どもたちと遊んだかと思うと、また保護者のもとに駆け寄り、体をすり寄せて甘え、また子どもの輪の中へ向かう、といった行動をくり返しています。まるで自動お掃除ロボットが、バッテリーが切れてきたら充電ステーションに戻り、充電が終わったらまたお掃除に出かける、といったイメージです。
このとき、保護者のもとにすり寄る幼児は、こう言っているようです。
「私はここにいていいのですか? ここは安心・安全な場所ですか? 私の存在は祝福され、受け入れられていますか?」
つまり幼児は、まずは保護者の絶対的な愛と庇護と受容を求め、それを基盤として、次に社会の受容を求めるわけです。

もしこういうとき、保護者が極めて統制的に振る舞ったらどうでしょう。
たとえば、「他の子どもの輪の中に積極的に入っていって、仲良く遊ぶなら褒めてあげる。そうでないなら厳しく叱る」といった態度です。
これを「条件つきの愛情」あるいは「随伴的愛情」と呼びます。つまり、「あなたがある一定の条件を満たすなら、その場合にだけ(それに随伴して)愛してあげる。そうでないなら愛してあげない」という態度です。英語の構文で言うと、「If you will ~, so I will love you, if not I will not love you.」ということです。

自律性は、良好な関係性という基盤の上にしか成立しません。
つまり、自律性とは、関係性の下位概念であると言ってもいいぐらいです。
「自律性(エイジェンシー)とは、協調性(コミュニオン)の中で発揮されるものである」ということをウィルバーもはっきり言っています。
親や保護者は、それを逆手に取るわけです。自分の愛情を「人質」にとって、「それが欲しければ言うことを聞け」とばかりに抑えつけるわけです。
子どもを叱ってはいけない、ということではありません。叱る代わりに、「悪いことをしたら、愛してあげない」とするなら、それは愛情を「人質に」取って、言うことを聞かせたい、ということにほかなりません。
エドワード・L・デシ博士はこう言っています。

「愛情を特定の行動に随伴させる(条件を満たすなら愛するが、そうでないなら愛さない)やり方は、子ども(や仲間)に対する接し方の中では、かなり統制的な方法である。なぜならそれは、他者から愛情を受け続けるために自律性を放棄するか、それとも「世捨て人」として生きるかを選択するよう子どもに強制するからである。」(「人を伸ばす力」より)

人を伸ばす力

これとはまったく反対の態度を「無条件の愛情」「非随伴的愛情」と言います。
つまり「たとえあなたが~しても(~だとしても)、私は常にあなたを愛しています」(「Even if you ~, I always love you.」)ということです。
こういう保護者は、甘えてすり寄ってきた子どもを思いっきり抱きしめ、安心させ、本人が満足した(愛情を充電し終えた)頃合いを見計らって、「ほら、見てごらん。あの子たちお砂場で何作ってるんだろうね?」などと言って、自主的に他の子どもの輪の中に入っていくことを促すかもしれません。
親や保護者が「非随伴的(無条件の)愛情」でもって子どもに接するなら、悪いことを叱る行為と、愛情を注ぐ行為を切り離すはずです。言い換えるなら、自分の愛情を、悪い(間違った)ことを止めさせるための動機づけに用いたりしない、ということです。つまり「悪い(間違った)ことをしたら、あなたを叱ります。でも、あなたがどんなに悪い(間違った)ことをしても、私はあなたを愛しています」ということです。
子育てマニュアルの中に「子どもを叱った後に抱きしめなさい」と書いてあるかもしれませんが、それはつまり「自分の愛情に条件をつけない」という意志を示すことに他なりません。「私は悪い(間違った)ことをしたあなたを叱りもするけれど、最後にはあなたを無条件で抱きしめます」ということです。

■「随伴的自尊感情」か「非随伴的自尊感情」か

当然のことながら、統制的に扱われた子どもは、「私にはこの世に居場所がない。私はこの世に受け入れられていない」という不安や自己不信にさいなまれ、自尊感情がうまく育たない、といったことが起こっても不思議ではありません。
こういう子どもは大人になっても「~である自分は認められるが、そうでない自分は認められない」という自己感覚を抱き続けるでしょう。たとえば「一生懸命仕事をする自分は認められるが、そうでない(サボっている)自分は認められない」あるいは「スリムな自分は認められるが、醜く太っている自分は認められない(鏡に映った自分がどれだけ痩せていようが、信じない)」といった具合いです。
もう少し詳しく言うと、被統制的に育った人が、「一生懸命仕事をするオマエは認められるが、そうでないオマエは認められない」というさらなる統制に対して服従的に対する(協調性が働く)なら、「ワーカホリック(仕事中毒)」になり、反抗的(自律性が働く)なら「仕事に対するアレルギー(サボり癖、労働拒否、五月病など)」になるでしょう。
「痩せている(自己管理できている)オマエは認めるが、太っている(自己管理できていない)オマエは認められない」という統制に対して服従的なら拒食症になり、反抗的なら過食症になる可能性が高まるわけです。
つまり、こういう人は、自分自身に対しても「もし私が~なら、私は私を認める。そうでないなら認めない」という自己認識になるわけです。

このように考えるなら、「症状」とは決して消し去るべき対象ではなく、不適応の原因をきちんと伝えようとしていると言えます。つまり「症状」とは、抑えたり出ないようにするべきものではなく、「原因」に対して「警告」を発している「アラーム」と考え、そのアラームを消そうとするのではなく、そもそもの原因に真っ先に取り組むべきものである、ということです。ところが、たいていの場合、医学の現場は、患者が不眠を訴えれば、睡眠薬を処方し(つまりアラームの方を切る)、教育の現場は、子どもが不登校状態から再び学校に通い始めれば、問題が解決したとみなします。
私は何も、患者は不眠のままでいい、不登校児は学校に通わないままでいい、と言っているのではありません。問題の根本的な解決には何を重要視する必要があるか、ということです。「症状」に対処して終わりなのか、それとも「症状」に対処している間に、原因にきちんと向き合うのか、という話です。

実は、ある統制に対して服従する場合も反抗する場合も、ともに「随伴的」なのです。どちらも、他人の態度によって自分の態度を決めている、ということです。統制に服従している自分だけが認められるなら、統制に対して「中毒」を起こし、統制に反抗している自分だけが認められるなら「アレルギー」を起こすでしょう。これを「随伴的(条件つきの)自尊感情」と呼びます。そうです、「随伴的愛情」は「随伴的自尊感情」を生み出すのです。反対に「無条件の愛情」は「無条件の自尊感情」を生み出すでしょう。
もしあなたが、「一生懸命仕事をする自分は認められるが、そうでない自分は認められない」あるいは「仕事にある一定の成果が得られるなら自分を褒めてやるが、そうでないなら激しく自分を責める」なら、あなたは仕事をする自分に関して「随伴的自尊感情」を持っている、ということです。あなたはついつい自分の限界を超えて働き過ぎてしまい、結局体を壊して自分も傷つけ、周囲にも迷惑をかけるか、仕事を辞めざるを得ない、という悲劇に見舞われるかもしれません。
このように、仕事に対するあなたの意欲が随伴的(外発的)なら、つまり自尊感情が特定の結果に依存している(極度に落ち込んだり、自分を必要以上に責めたり、仕事への意欲を完全に失ったりする)なら、あなたは仕事に対して「エゴ関与」している、と言います。
一方、仕事に対するあなたの意欲が非随伴的(内発的)なら、つまり自尊感情が特定の結果に依存していない(仕事そのものに対する興味や価値によって動機づけられている)なら、あなたは仕事に対して「課題関与」している、と言います。

一般に、目上の人間から統制的なやり方で社会化を促進され、取り入れを起こしている人は、統制という振る舞い方しか学習していないため、目下の人間に対しても統制的に振る舞うでしょう。このように統制という態度は縦方向に連鎖する傾向にあります。
統制が上から下へ連鎖する場合、「随伴性(付帯条件)」も伝播することになるため、次のような態度やものの言い方が踏襲されるでしょう。
「もしオマエが言うことを聞くなら、評価し目をかけてやる(そうでないなら認めない)」
「うまくやるなら褒めてやるし、ダメなら罰を与える」
「テストで100点を取るなら、お小遣いをあげる。低い点数ならお小遣いはナシ」
「あなたが私を助けてくれるなら、私もあなたの言うことを聞く」
付帯する条件のきつさ・ゆるさによって、その人の統制度・被統制度がわかると言ってもいいかもしれません。言うまでもなく、もっともきつい付帯条件は「命令に逆らうなら殺す」というものです。

強い統制を受けてきた人ほど、自分が自由意思で自発的にこの世界と関わっているという手応えが薄くなり、その分、自分がこの世に存在していることそのものに不安感や疑念を抱くことになります。したがって、自分が存在し続ける(この世でサバイバルする)ためには、常に相手に何らかの満たすべき条件を付与し、その条件が満たされるかどうか検証し続ける、という態度になるわけです。子どもが親の愛情を確かめたくて、わざと非行に走る、といったことと同じです。ただしこれは無意識の意図なので、本人は気づいていません。

もちろん、その反対に、目上の人間から自律性を支援するかたちで社会化を促され、ルールや規範を統合できている人は、目下の人間に対しても自律性を支援するやり方で対することができるでしょう。自律性の支援もまた、縦方向に連鎖する傾向があるわけです。
もしあなたが、社会化の促進者たちから極めて賢明なやり方で自律性を支援する指導を受けてきたなら、(職人気質であろうと商人気質であろうと)おそらく次のように対処するはずです。
「今、私あるいは私たちの目の前で起きていることは、私あるいは誰かの単独の責任ということはあり得ない。事態は全員の問題である。だからこそ、私も事態に賢明に対処する用意がある」
これこそが「課題関与」です。こういうものの考え方や態度の人なら、たとえ他の人が対話拒否、有無を言わせぬ強要や命令、責任転嫁、逃げ腰といった態度(つまり被統制的態度)に出たとしても、きちんと事態に向き合い、自分事として捉え、責任ある言動に出るでしょう。

ここまでをまとめておきます。
○「統制」とはすなわち「随伴的(条件つきの)愛情」であり、それは自律性の阻害要因となります。「統制」は、次のようなものを相手に次々に生み出します。
「規範の取り入れ」→「随伴的(条件つきの)自尊感情」→「エゴ関与」
○「自律性の支援」とは「非随伴的(無条件の)愛情」であり、それは自律性と協調性を両立させることになります。「自律性の支援」は、次のようなものを相手に次々に生み出します。
「規範の統合」→「非随伴的(無条件の)自尊感情」→「課題関与」

■4つの被統制的気質が示す傾向

「随伴的(条件つきの)自尊感情」が強い人は、自分の発揮する意欲が外発的であるため、自分で自分を100%認めてやることができません。もし仮に、自己信頼が50%、自己不信が50%だとするなら、この人は年中「Yes」と「No」の間で葛藤していることになります。もし二つの極がちょうど半々で釣り合っているなら、この人は自分から何も始めることはできないでしょうし、自分が物事に関与しているという手応えも持てないでしょう。つまり、何事につけ、自分で判断し、決断し、実行に移し、結果に責任を持つ、ということが困難になっていく、ということです。こういう人は、他人を100%信頼したり認めたり、ということも困難になるでしょう。
また、「随伴的自尊感情」の強い人は、社会的ルールや規範を守る・守らない、物事が失敗する・しない、うまくいく・いかないといったことに対して過剰反応する傾向もあります。
こうした事情を、気質別に見てみましょう。

●軍人気質の人の傾向
軍人気質の人は、独立統制に対して服従的であるため、自分に対しても他人に対しても、ルールからはみ出すことや、何かに尻込みしたり優柔不断だったり、ということを許せず、そうしたことが起こると、自分にも他人にも厳しい罰を与える傾向があります。

●革命家気質の人の傾向
革命家気質の人は、依存統制に対して反抗的であるため、社会的ルールや規範に対しても反抗的で、ルールや常識に忠実な人間に対して攻撃的だったり、他人や社会に対する拒否感(アレルギー)が、社会変革に対する中毒症状に発展したり、ということが起こってきます。

軍人気質の人も革命家気質の人も、ともに外見上は非常に意志の強い人に見えますが、その強さは内発的な自尊感情からくるものではないため、実は「オマエが私の言うことを聞くなら認めてやる、聞かないなら罰する」という随伴性(付帯条件)が裏に隠れています。
こういう人は、表面的には強引な態度を取っていながら、その裏では上辺の強引さに比例して強い抑圧を受けている、ということも言えるでしょう。「自分が受けてきた抑圧の分を、他者を抑圧することで返そう」という無意識的な力学が働いている、とも言えます。
ある意味、その抑圧の分だけ外的な条件に左右されやすく、内心では大きな葛藤を抱えている場合が多いはずです。たとえば軍人気質の人は、命令が発せられないと自ら動けない傾向があり、革命家気質の人は、自分が反抗したい対象が見つかったときだけ情熱的になり、見つからないと無気力になる、といった傾向があります。

●山師気質の人の傾向
山師気質の人は、独立統制に対して反抗的であるため、自分に対しても他人に対しても、自律的・独立的であることを嫌悪したり、自分が他人や社会に依存することを強引に認めさせようとする傾向があります。場合によっては、わざと失敗してみせて(失敗するとわかっていることをあえてやって)周囲の注意を引くことで自分の存在を確かめるようなこともします。勝てないとわかっているギャンブルに手を出す、といったことです。

●シンデレラ気質の人の傾向
シンデレラ気質の人は、依存統制に対して服従的であるため、チャレンジした方がいいことに二の足を踏み、ついつい安全で無難な道を選んでしまう、といったことが年中でしょう。見知らぬ他人が自分に何かを仕掛けてくるのではないかと常に怯えたり、他力本願で、自分のコントロールのきかないことに過剰な期待を抱く(たとえば占いにハマる、など)といったことも起こってきます。

年少の子どもであればあるほど、社会化の担い手(特に親や保護者)から統制的に扱われた場合、たとえば「随伴的(条件つきの)愛情」でもって扱われた場合、そうした大人の愛情や庇護を受けなければ生きられないわけですから、その統制がどんなに理不尽でも、それで自分がどんなに抑鬱的になろうと、とりあえずその統制に従うしかないでしょう。そういう意味では、おそらく子どもは、厳しい統制下では、まず真っ先にシンデレラ気質を身につけると思われます。ただし、シンデレラ気質を身につけたからといって、無意識の抑圧が解消されるわけではない点に留意してください。
おそらく、それ以降どんな気質へと展開していくかは、親(保護者)が依存統制を強化するか、それとも独立統制を仕掛けるか、といったことによっても変わってくると考えられます。ただしこれも親と子の相互関係ですから、たとえば独立心や反抗心の強すぎる子に対しては、親は依存統制を強めることになるでしょうし、依存心や服従心の強すぎる子に対しては、親は独立統制を強める傾向になるでしょう。
この場合も、親が子どもに対して自律性を支援する態度をとるなら、子どもは、本来持っている個性や性格を損なうことなく、自発的に社会的ルールや規範を統合することになるはずです。つまり、職人気質や商人気質を自ら自然に育てることができる、ということです。

■複雑に発揮される被統制的気質

以上のようなまったく異なる気質は、単独で発揮されるとは限りません。人間はそもそも多面的・多層的な存在ですから、まったく異なる気質が複合的に発揮されることもしばしばでしょう。ましてや様々な人から異なる統制を受けていれば、それだけ混乱や葛藤も複雑化し、なおのこと多面性を発揮するはずです。
たとえば普段は軍人気質を発揮している人が、ある場面・ある文脈においてはとたんにシンデレラ気質になる、といったことも起こり得ます。軍人気質もシンデレラ気質も、ともに統制に対して「服従的」である点を考えるなら、独立性を求められる場面では軍人的、依存性を求められる場面ではシンデレラ的に振る舞ったとしても不思議ではありません。

これは、私の友人(仮にA君としておきます)が実際に体験したことです。
ある会社に入社したてのA君は、直属の上司から「何でも臆せずに積極的にチャレンジしろ。失敗してもオレがしっかりフォローしてやる」と言われ、何と頼りになる上司かと思っていました。営業職だったA君は、車で得意先を巡ることが多く、ある日何軒も得意先を梯子しなければならないときに、焦っていて、うっかり会社の車を電柱にぶつけてしまいました。上司に報告すると、一緒に管理職に謝りに行ってやる、ということになり、管理職の部屋に一緒に行くと、その上司はA君を指さして「こいつが悪いんです!」と言ったとか。

統制に対して服従的でも反抗的でも、そうした態度が常態化しているなら、その人は得体の知れない不安や恐れ、不信感や苛立ち、世の中に対する漠然とした拒否感や疎外感(自分がこの世にうまく受け入れられていないという居心地の悪さ)、そしてそうした感情に裏打ちされた攻撃性や復讐心(加罰欲求)などを年中抱えていても不思議ではありません。
そういう人はまた、他者に対しても、世間が自分に対して取っている(と思い込んでいる)のと同じ態度を取ったとしても不思議ではありません。シンデレラ気質が強い人でも、文脈によっては高圧的な態度に出る場合もあります。

これは私が実際に目にした光景です。
母親と幼稚園か小学校低学年ぐらいの子どもが、ラーメン店で並んで黙々とラーメンを食べています。誰が見ても親子の仲睦まじいランチタイムに見えます。私もそのようにその親子を見るとはなしに見ていました。すると、その親子の向かいの席に座った女性が、私と同じことを感じたのでしょう、その子に向けて(あるいは母親にも向けて)「かわいいわね~」と声をかけました。私は当然、その母親も子どもも、少なくともニッコリしたり照れたりすることを期待していました。ところがその母親は、そのような声掛けが不満だとでも言いたげに、急に表情を険しくして、「早く食べろ!」とでも言うように、咎めるような視線を子どもに送ったかと思うと、また無表情で自分の丼に目を落としたのです。さらに不幸なことに、その子はそんな扱われ方に慣れている、とでも言うように、平然としているのです。
この親子に何があったのかはわかりません。このランチタイムの前に、子どもが何か悪さをして、母親がそれを叱るような場面があったのかもしれません。だとしても、好意的な赤の他人にまで見せるその母親の極端な不機嫌さの原因が子どもにあるとは、私にはとても思えませんでした。私が感じたのは、その母親自身の(たぶんそのときに始まったのではない)深く抑圧された感情です。子どもはそれのとばっちりを受けた、といったところでしょうか。

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