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シリーズ「新型コロナ」その34:NHK「コロナ新時代への提言」を観て

5月23日、NHK・BS1にて、「コロナ新時代への提言~変容する人間・社会・倫理~」が放送された。
残念ながら、時節柄別々の収録だったようだが、出演したのは、次の3人

〇哲学者の國分功一郎氏
〇人類学者・霊長類学者の山極寿一氏
〇歴史学者の飯島渉氏

この中で、私は特に國分氏の発言にいろいろと思うところがあった。そこで、今回のシリーズを借りて、國分氏の発言に対する私の持論を展開してみたい。

國分氏の主張は、大まかに言って、次の2点。

〇「ウイルスは人を差別しないが、ウイルスに対するリスクには明らかな経済格差がある」
〇「今、疫学的・統計的なものの見方、集団でしか人間を捉えないものの味方が大前提になってしまっているが、それには違和感を覚える。その違和感の第一は、死者の権利(死者が敬意を払われ、丁重に葬られる権利)が蹂躙されているということ。第二は、人間の根本的な権利である移動の自由が制限されているということ」

これについて、詳しく見ていこう。

■「ウイルスは差別しない」?

「ウイルスは人を差別しない」という言い方は、一種の擬人化だ。もちろんこれは「その人が金持ちであろうが貧乏であろうが、どんな地位についているか、どこに住んでいるか、有名人か無名かに関係なく、ウイルスは見境なく(忖度なしに)感染する」という意味だが、ウイルスの擬人化は、これくらいにとどめておこう。
そのうえで、ウイルスに限らず、感染症あるいは公衆衛生上の影響は本当に平等か、それとも格差があるのか、考えてみよう。

國分氏は、師であるフランスの哲学者エティエンヌ・バリバール氏の次の言葉を引用する。

「人々は危険を前にして、あるいは危険を払いのける手段を前にして平等ではない」

師の言葉を借りての國分氏の説明はこうだ。
手を洗う水さえない貧困層と充分な衛生環境を確保できる経済を有する層とでは、危険を前にしたときのリスクがまるで違う。そこには明らかな公衆衛生上の格差がある。
だから、「ウイルスは差別しない」という言い方は非常に抽象的で、実際には健康面でも社会格差があることをありありと示している。

もちろんおっしゃる通り。
しかしこの指摘は、公衆衛生学において残念ながら物事の半分しか言いあてていない。
たとえば汚水や汚物にまみれたインドやバングラデシュのスラム街の住人も、ニューヨークの高級住宅街に暮らす富裕層も、公衆衛生の面で相互に影響し合っているという事実がある。

同じNHK・BS1で、同じ時期に非常に重要な番組が放送された。
「不死身のスーパー耐性菌 抗生物質の効かない未来」(5月27日)

20世紀最大の発明・発見の一つは抗生物質だと言われている。しかし、この抗生物質の乱用が、21世紀最大の人類の危機のひとつになろうとしている。いわゆる「薬剤耐性菌」の出現だ。
その大きな原因のひとつは、家畜に飼料として抗生物質を与えてきたことだという。たとえばアメリカでは5年間で200トン以上の抗生物質を家畜に与えているという。そのほとんどは成長促進のためと、過密した飼育場で起こる病気の予防のためだという。決して家畜の病気治療のためではないのだ。
その結果、家畜の腸内で耐性菌が発生する。耐性菌は体内にとどまらず、フンとともに排出され、土壌や水を介して周囲に広まる。食肉工場も同じ。フンにたかるハエも媒体になり、一般家庭にも菌が入り込む。ひとたび耐性菌が発生すると、その耐性を他の細菌が拾い上げ、牧場や食肉加工場などから世界中に蔓延する。もはや経路を追跡することはできない。

イギリス政府の耐性菌問題の特別報告官であるジム・オニール氏は言う。

「薬剤耐性菌を放置すれば、恐怖のシナリオとなります。2050年に世界で年間1000万人が死亡。主要国も途上国も関係ありません。ガンによる死亡者数を上回るでしょう。今後30年余りに予想される経済的損失の累計は100兆ドルに達します。
ヨーロッパの国がこの問題に取り組んだとしても、地球の裏側の国が対処しなければ、結局被害を受けます」

一般的に手に入るあらゆる抗生物質がいっさい効かない「スーパー耐性菌」まで登場してきているという。番組では、骨折治療の患者が、そうした耐性菌に感染していた例を紹介している。

新種の感染症の調査にインドを訪れたイギリスの微生物学者ティモシー・ウォルシュ氏は、新しい耐性菌を発見した。

「細菌がこの調子で急速に進化し、抗生物質への耐性を獲得していくと、逃げられる国はありません。ここで起きていることが世界に広がるでしょう。2050年には抗生物質のない時代に戻ってしまうかもしれません。19世紀のように普通の感染症で人が死ぬということです」

抗生物質が効かなくなるとは、何を意味するか。歯を抜くのにも死を覚悟しなければならない、ということだ。簡単な外科手術から臓器移植に至るまで、近代医療は不可能になる。

科学ジャーナリストのマリン・マッケナ氏は言う。

「我々は手持ちのカードを使い切ってしまったのです。全ての抗生物質を失ったら、世界中の医療体制が吹き飛ばされてしまいます。私たちは今、導火線に火をつけたところです。爆発までどれだけもつか、誰も知りません」

この例でもおわかりだろう。ウイルスの蔓延による医療崩壊どころの話ではない。地球の裏側で起きていることだと言って、誰も他人事ではいられないのだ。経済的格差など関係ない。そういう意味で、病原体は人を差別しないのだ。
特に耐性菌の問題は、人災の側面が大きいという点を強調しておかなければならない。私たち人間の飽くなき物質的・経済的欲望、科学的発見の見境ない濫用が、自分たち自身の首を絞めていることに、いい加減気づき、歯止めをかけなければならない。

■死者の権利

國分氏のもうひとつの主張に移ろう。

「今、疫学的なものの見方が大前提になってしまっているが、それは人口を統計的に扱うこと。それは人間をひとつの『駒』として見ること。そのことに、人が少しも違和感を感じないことに違和感を感じる。」

人を統計学上の「駒」としか見ない風潮に対し、國分氏はイタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベン氏の論考に人々が「炎上」した例を紹介する。
イタリアの強硬な都市封鎖に対して、アガンベン氏は異議を唱えたという。

「ウイルスに感染しても集中治療を受けねばならないのはそのわずか4%と言っているのに、なぜ非常事態の措置が実施されねばならないのか」(2月26日発表)

この発言に非難を受けたアガンベン氏は、補足説明を出したという。
<3月17日>「補足説明」より

「病のもたらす倫理的・政治的な帰結を問うことが必要
今回のパニックは、我々の社会がもはや剥き出しの生以外の何ものも信じていないことを明らかに・・・」

ここでアガンベン氏が言いたいことは2つだと、國分氏は言う。
1つは、新型コロナウィルス感染症で亡くなった方が、葬儀も行われずに埋葬される。遺体に親族でさえも会うことができない。
アガンベン氏の言葉を借りれば、これは「死者が葬儀の権利を持たない」すなわち「死者の権利の蹂躙」ということ。

アガンベン氏曰く。


「生存以外のいかなる価値も認めない社会というのは、一体何なんだろうか?」


死者が葬儀を受ける権利を持たない、遺族が面会もできない、人々が死者に敬意を払わない、そういう社会になってしまい、それに少しも疑問を持たないとしたら、人間の社会はどうなってしまうのか?

まず、アガンベン氏の言うように、このコロナ危機によって、我々の社会はもはや剥き出しの生以外の何ものも信じなくなってしまったのだろうか。これは、肉体の生存が重要か、あるいは心(魂)が重要か、という問いに置き換えることもできるだろう。
だからと言って、國分氏の言うように、コロナ禍によって死者の(葬儀の)権利が蹂躙されたかと言うと、こと日本に関しては、そんなことはないと思う。

まず第一に、「死者の(葬儀の)権利」という言い方は、主格の誤謬だ。これは「死者を丁重に葬る遺族の権利」と言い直すのが正しい。もし本当に死者に対して何らかの遵守すべき重要な社会的権利を与えるとすると、これは死者を敬う云々以上のまったく別の問題が発生してくる。それに関しては、論を改めたい。

さて、「死者を丁重に葬る遺族の権利」は、このコロナショックによって蹂躙されたか?
確かに、親族の死に目に会えない、死後対面することもできない、遺体に触れてやることもできない、葬儀を出してやることもできない、ただ火葬場で焼かれて骨になった状態で引き取るしかない、という事態は、遺族にとって耐え難い。
しかし、全員とまでは言えないかもしれないが、ほとんどの医療従事者や葬儀関係者たちは、家族に代わって感染者を世話し、亡くなったら亡くなったで、遺体を丁重に処理し、荼毘に付すという作業を、自らの感染リスクを背負いつつやっているのだ。國分氏の発言は、そういう人たちに対して礼を欠いている。

先日、都内在住のある知り合いと電話で話をした。その人の母親は90代半ばを過ぎていて、近所の高齢者施設にいるが、このコロナ騒ぎの中、高熱を出して一時意識不明になった。施設の職員が救急車で病院に搬送しようとしたが、40箇所の病院に連絡して、すべて断られたという。仕方なく施設で様子をみることにした。施設付きの医師が診察したところ、肺に異音はないとのことだったが、面会謝絶状態なので、ご本人は母親に近づくこともできない。最悪の場合どうするか職員に相談されたので、「コロナの疑いがゼロではない状態で、自分は近づくことができない以上、看取りをお願いするしかない」と答えると、施設側が最期の看取りを引き受けたそうだ。この時節柄、高齢者施設の職員も命がけの仕事だ。

私たちは、もうずっと以前から、死者の葬儀を「代行業」の対象にしてきたのだ。いわば、「汚れ仕事」の部分は、お金を払って他人任せにしてきた事実がある。そのことを忘れてはいけない。「その事実を正せ」と言いたいのではない。死者の弔いは、相変わらず代行されている。今回のコロナ禍は、それに「遺族に感染の危険が及ぶから」という新たな理由が追加され、それによって代行する作業範囲が広がっただけの話だ。
もし仮に、この代行業者に、死者を軽んじる(死者の権利を蹂躙する)風潮があるなら、それは大いに問題だろうが、今のところそういう話は聞こえてこない。

そしてもう1つ、先ほど私がペンディングにした「死者に対して何らかの重要な社会的権利を与える」ということにやや触れる部分になってくるのだが、國分氏は重ねて言う。

「死者に敬意を払うことは、社会が大事にしてきたことをきちんと守っていくこと。」

國分氏はここで「立憲主義」という言葉を持ち出す。

「今まで大事に守られてきた(先人の)ルールを守っていかなければいけないと人が思うときには、過去(歴史)のことを考える。死者の重みが、生きている人間にのしかかってくる。それが、社会の原理原則を守ろうとする気持ちを作る。
死者を敬わない世界は、『現在』だけがある薄っぺらい社会になってしまう。」

私はどうも、こうしたものの言い方に、やや危険な匂いを嗅ぎ取る。
「死者を敬い、死後の世界を人間の死生観に組み込むことは、現世だけを想定する薄っぺらい社会に重厚さをもたらすはずだ」という含みを暗に示しているのだろうが、それが科学的か非科学的かを問わず、この論理には充分に注意しなければならない。なぜなら、下手をすると私たちの死生観、文化・文明を、数百年前に引き戻してしまう危険性があるからだ。
これは、壮大なテーマなので、機会を改めて、インカ文明の勃興と滅亡を例にとって、じっくり語りたいと思う。と言うのも、このコロナ禍によって、私たちは21世紀型の新たな文明観、死生観を創出することが求められていると思うからだ。この作業は少し時間をかけてやる必要があるだろう。

■都市封鎖と移動の自由

最後の、「都市封鎖によって、人間の根本的な権利である移動の自由が制限されている」という点について。

アガンベン氏曰く。


「戦争中にも行われなかったほどの移動制限によって、人間にとってもっとも根本的な権利である移動の自由が侵害されている。移動の自由は、他の自由にもましてもっとも重要であって、それは死守されねばならない」

國分氏曰く。


「近代の法体系では、いちばん重い刑罰は死刑、軽いのは罰金、その間にあるのはすべて移動の制限。監獄に閉じ込めるということ。ベルリンの壁の崩壊も、人々が移動の自由を求めた結果。ドイツのメルケル首相の演説にもそれが表れている。」
「日常生活における制約は、渡航や移動の自由が苦難の末に勝ち取られた権利であるという経験をしてきた私のような人間にとり、絶対的な必要性がなければ正当化し得ないものなのです。民主主義においては、決して安易に決めてはならず、決めるのであればあくまでも一時的なものにとどめるべきです。しかし今は、命を救うためには避けられないことなのです。」(メルケル)
「緊急事態だからといって、行政機関がさまざまなルールをどんどん作って、立法府がないがしろにされる事態は、民主主義の危機である」(アガンベン)

もちろんその通りだ。
同じ時期にNHK・Eテレで放送された、もうひとつの重要な番組「緊急対談 パンデミックが変える世界ユヴァル・ノア・ハラリとの60分」(4月25日)の中で、歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ氏が指摘している通り、新型ウイルスのパンデミックといった緊急事態にはもちろん迅速な対応が必要であるものの、だからといって特定の権力者に必要以上の権限を与えるのは危険である。
また、もうひとつ、緊急時の臨時措置として採用されたルールが、その後も継続されてしまう傾向があることもハラリ氏は指摘している。ルールは新しく作るよりも取り下げる方が難しい。特にそれが独裁的なルールなら、それが濫用されれば、民主主義の危機になりかねない。

今、極めて期間限定的に行われている(行われた)都市封鎖のような処置が、もし今後も何らかの政治的理由で継続されるとしたら、あるいはまったく別の理由で再び行使されるなら、それは人々の自由を意図的に制限することであり、民主主義に対する破壊行為だろう。
今のところそういうニュースはない。
都市封鎖そのものの危険性よりも、ハラリ氏は、ウイルスの追跡の目的で導入される監視システムの危険性を指摘している。高度監視社会を許せば許すほど、私たちは民主主義を手放すことになりかねない。つまり、移動の自由とは、自分の私生活を不当にモニタリングされずにすむ権利と必ずセットであるということだ。
日本でも新型コロナ接触確認アプリが導入されようとしている。個人情報は公開されない仕様になっているというが、悪用しようと思えば細工はできるのではないか。それは、端的に言って、政治的意図やテロリズムの恰好の標的にされかねないことを意味している。
いずれにしろ私たちは、この危機に乗じて民主主義を脅かそうとするような動きに対しては、警戒を怠らないようにしなければならない。


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