モトカノ:最後のキス
女は、朝9時に部屋にやってきた。
ブルーのニットワンピースがよく似合っていた。
長らく専業主婦をしていた彼女だったが、今は地元の広告制作会社でパートを始めていた。
ダンナと小学生の娘を送り出し、仕事に行く用意をして、ここにやって来た。
少しやせた手足はスラリと長く、表情にもどこか気品が漂っていた。
ベッドサイドの狭苦しいイスに腰を下ろし、昨夜買っておいたビールをグラスに注ぐと、「朝から飲むなんて、何年ぶりだろ……」と笑った。
そして、地域社会がいかに狭いか、ママ友の付き合いがいかにメンドくさいか……といった
往時の彼女にはまったく似つかわしくない話をひと通りした。
そして、
「で、どうなったのよ、ダンナは?」
「ヒザ付き合わせて、話し合った」
「で?」
「うーん、限りなくクロに近いグレーだね。女はいたと思う。でも、なんかどーでもよくなっちゃった」
「いかんいかん」
「けっこう冷え切ってたし、お互い離婚してもいいよって話にもなったんだけど、一応、娘がいるからね~。ダンナのこと大好きだし、うちの娘」
「DVでもなけりゃ、別れても別にいいことないしね……つーか、一緒だよね、相手が誰だったとしても。退屈なのは変わりない。それは自分の問題」
「そ、そういうどこにでもあるつまんない結論です。あんたもけっこうキッツイ危機あったんでしょ?」
「うちは、死ぬだの殺すだのまで行ったもんね。浮気相手は家の前まで来るし……」
「殺されればよかったのに」
「ホント、どうしようもない人間で申し訳ありません……」
「あたしは、最近けっこうダンナと仲いいよ」
「よかったじゃん。雨降って、なんとやら」
「夜はないけどね」
「しときなさいよ、大事よ」
「あんたもよくいつまでもやってるよね。性欲強いんだね」
「よーわからん。身体削ってる感じ」
「今、セフレ何人いんの?」
「たぶん3人」
「バカじゃないの?」
「おれもそう思う。なにやってんだか」
「やりたいの? さみしいの?」
「……両方ちょっとずつ違う」
「しあわせなの?」
「ぜんぜん」
「結局、やりたいんでしょ?」
「でも、フーゾクとかぜんぜん行きたくない」
「じゃなんなの?」
「存在を認めてほしいんだと思う」
「出た、自己承認欲求」
「自己愛っすね」
「子ども、いくつになったんだっけ?」
「中3、もろ反抗期(笑)」
「すごいね」
「もう、ぜんぜん話聞かねーよ。ヨメとのケンカとかハンパないし」
「どんなこと言うの?」
「塾から帰ってくるなり、『なんでメシねーんだよ!』とかキレてくる」
「うわ~あたしだったら、引っぱたくかも」
「引っぱたけないよ、170センチの中3男子」
「そっかー(笑)」
「あれ、娘って中1だっけ?」
「小6、相変わらず、ママにベッタリ」
「母子って、キツイよね」
「ホント、そうなんです」
「知り合いがひとり娘の母子家庭なんだけど、もう濃さが尋常じゃないもん」
「うちも実際、離婚してたら、ちょっとヤバかったかも」
「どーして?」
「とにかく、うちの娘、あたしのこと大好きなのよ。『ママ、すっごいかわいい』とか言ってくれるし。どうしたらいいかわかんない」
「中身がクソ人間ですみません…と言えばいい」
「あたしは、むしろそういうこと言ってるもん」
「でも、子どもにとって親の絶対性ハンパないよね。オレも親になって、初めてわかった」
「うちの実家はさー、けっこう母親とぶつかって育ってきたから……娘のあの感覚ちょっとよくわかんないんだよね」
「お母さん、変わりもんだったっけ?」
「まーバリバリ働いてたから、専業主婦の家とは感覚違うよね。勉強とかぜんぜん見てくれないのに、恥ずかしいからトップ校以外受験させないとか平気で言うし」
「そんなふうに見えなかったけどね」
「外ヅラいいから。だからあたしもアクセサリーだったんだよね、あの人の」
「うちも共働きだったから、勉強しろとか言われたことないよ。親に聞いても何も解決しない前提で育ったもんね」
「あたしも」
「そこかもね、オレたちの共通点」
「たしかに。でもあたし、娘のドリルとか付き合ったりしてんのよ、これでも」
「いいと思うよ。オレまったくやってない。塾の先生に任せっきり」
「あたしもこんなになるとは思わなかった。東京にいたら、違ったかな~」
「わからんもんだよね。そのうち娘に、ママはクソ人間だってことちゃんと教えてあげるよ」
「よろしく」
「でも、娘の服とかつくってるんでしょ?」
「そう、ウケるでしょ? 娘には、女は外見がすべてだからとくかくかわいくしなさいって言ってる」
「やめなさいって」
「真理じゃん」
「まーそーですけど」
「ねぇ、結婚してよかったと思う?」
「……5周くらい回って、今はよかったと思ってる。ぜんぜん好きなことできないし、夢とかも追えてないけど、結婚してなかったら、なんか達成してたとは思えない。ヨメも最近かわいいし」
「私もよかったと思ってる。独身だったら、どうしようもないクソ人間のまんまだった」
「オレもそれ言おうとした」
「やっぱ親である責任からは逃れられない」
「やだね~」
「安心しなよ、今も十分クソ人間だから」
「お互いさまですが」
そっと重ねた唇は、やわらかかった。
なつかしいどこかへ連れて行ってくれる気がした。
彼女は拒まなかった。
強く抱きしめると遠い記憶がこぼれ出した。
細い身体の輪郭をやさしくなぞると、時間が消えていった。
「勝負パンツとかないから……」
彼女は恥ずかしそうにそんなことを言った。
22年ぶりに肌を重ねた私たちは、昔のままだけど少し大人になっていた。
子育てを刻んだ女の身体は、ひと回り小さくなっていた。
ビールを飲み過ぎたのか、役に立たなかった私に、
彼女は「こうなると思ってたよ」と言った。
私もこれで正しいような気がした。
「あ、4時だ」
そう言って、彼女はブルーのニットワンピをスルリと纏い、髪を整えた。
女は1分で母になった。
鏡の前で振り返ったときの笑顔は、大好きだったあの頃のままだった。
「これで最後ね……私、意志固いから」
こういう身勝手な言い分は、昔からぜんぜん変わらない。
私は、「そーだね」と言って、
やさしくやさしく…やさしくキスをした。
翌日から、ふたりは再びどーしようもない日常に飲み込まれていく。
フツーの大人は、「かけおち」も「りこん」もしない。
健康な親から生まれ、健康な子どもを育てている。
この「しあわせ」から降りる勇気なんてない。
結局、私たちは、ほの暗いビジネスホテルの一室で、
大きな意志がいかに強固であるかを確かめ合ったのだ。
END
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