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不真面目なゲームデザイン

ボードゲームであれ、コンピュータゲームであれ、ゲームデザインはプレイヤーに対して「フェアであること」が求められます。

フェアである…すなわちゲーム側がプレイヤーに対して「騙さない」「嘘をつかない」「不平等にしない」「隠さない」「無理強いしない」など…

プレイヤーにとって「ズルいよ!」と思われないようにすること、それが「フェアなゲームデザイン」と言えるでしょう。

一見すると「フェアなゲームデザインを心がける」ことは正しいと思えます。
しかし、ゲーム開発はむしろ「いかにフェアさを崩す」かを狙っているのではないでしょうか。

プレイヤーに対して「騙す」「嘘をつく」「不平等にする」「隠す」「無理強いする」…それを不快感なく、ゲームを楽しむために利用するのがゲームデザインなのではないでしょうか?

対称的ゲームと非対称的ゲーム

ゲームのフェアネスについてもう少し考えてみましょう。
ゲームのフェアさ、公正さは「いつからいつまで保たれている」のでしょうか?

それはゲームを開始した時でしょうか?

そうですね、将棋やチェスといったゲームは相手とまったく同じステータスからゲームを開始します。
これは「対称的なゲーム」と呼ばれます。
(あー、ええと、このあたりはボードゲーム開発者の方からするともっときちんとした定義があるのだと思います)

チェス、チェッカー、モノポリー、その他のほとんどの単純なゲームは対称的であり、すべての面で同じリソースから始まります。

デザイナーズノート:シンメトリーレッスン (gamedeveloper.com)

それはゲームを遊んでいる最中でしょうか?

ルール…それはまったくフェアですね。とくに「ターン」に関するルールはフェアそのものです。
1ターンに1つしかコマを動かせない、1ターンに1度しかカードを交換できない…おっと、1ターン内に「どういう行動をするか」はプレイヤーの自由ですが、その行動は対称的とは言えませんね。
カードを交換するプレイヤーもいれば、交換せずに維持するプレイヤーもいる。ルールは対称的ですが、行動は非対称です。

なるほど、プレイヤーの個々の判断、あるいは能力によってフェアさは崩れます。超賢い(IQ200とか!?)プレイヤーと凡庸なプレイヤーが戦った時、ルールのフェアさは「むしろフェアさを壊す」ようです。

これは「フェアさ」についての風刺画を思い出させますね。「平等」とは何か?身長の高い人々だけが柵の向こう側を見られるけれど、低い人は見ることが出来ない。それはルールとしてはフェアで…しかし「感情としては」アンフェアです。

対称的なのはルールだけ、そしてすぐに崩れる

プレイヤー不在の「世界が静止した理想的な状況=ゲーム開始前」は対称的な状況が広がっていますが、プレイヤーが参加した途端に対称性は崩れてしまいます。

プレイヤー個々の判断ミス、能力の差、性格の違い、そのゲームをプレイした経験…など、てんでバラバラでカオスな状況が繰り広げられたあと、すべてのユーザーはこう口にします。

「おいおい、このゲームはフェアじゃないよ!」

プレイヤーの文句を聞いたゲームデザイナーは頭を抱えてしまいます。あなた方が遊ばなければゲームはフェアだったのだ…しかし、プレイヤー不在のゲームなどというものは成立しません。

机上の空論から「リアルな世界」を目にしたゲームデザイナーは考え始めます。

「フェアさ」ってなんだ?

「フェアさ」とは「フェアであること」ではなく「フェアだと感じられる」ことです。
遊んでいるプレイヤーが「フェアだ」と実感できるなら、実質フェアでなくても「何も問題はありません」よね?

「いや、そんな詐欺師のような態度はけしからん!」
「ゲームデザイナーの片隅にもおけないヤツ…!」

と、私の中の良心が叫んでいる声が聞こえたような気もしますが、幻聴でしょう。

哲学と同じように「その場にいる人々が納得できる結論」こそが正しいのであって「純粋な真実」というものは存在しません。(ピュアな真実を追い求めるなら、永遠に「ピュアな環境とは何か」を追い求めることになるでしょう)

シリアスネスな態度

「フェアではない態度」に対して反発する態度を「シリアスネス」と呼称してみます。

日本語に意訳するなら「生真面目さ」というイメージです。

たとえばプレイヤー2名が対戦しているとして、それぞれの手にはサイコロが3つ握られています。それを「せーの」で転がし、3つの目の合計値が高いほうが勝利する。ルールとしては対称的、極めてフェアな状況です。

それでは、このゲームは楽しいでしょうか?

プレイヤーBは不運にも、何度サイコロを転がしてもプレイヤーAに勝つことができません。100年近く遊んでも、一度も勝てることなく寿命を終えました。

プレイヤーBは「フェアなゲームで楽しかった!」と言うでしょうか?
(もしかしてプレイヤーAはイカサマをしていたのかも…はてさて)

フェアさを追求する態度「シリアスな態度(シリアスネス)」は遊んでいるプレイヤーの楽しさを阻害する可能性があります。

フェアだから楽しい、フェアさは守らなければならない、という態度は改めなければいけません。

必要なのは「生真面目さ(シリアスネス)」よりも「不真面目さ」です。

不真面目さとは「プレイヤーを舐めた態度」ではありません。

「プレイヤーの楽しさ、フェアという実感」のために「いかに裏で盛り上げるためのお膳立てをするか」という態度、開発姿勢のことです。

不真面目なゲームデザイン

神様であるアナタは(偉いという意味ではなく、隠れて覗き見ている開発者のことです!)サイコロを握りしめた2人の側に立っています。
悔しそうに顔を歪めるプレイヤーBを見て、ゲームデザインの失敗を悟るでしょう。

「フェアではあったが…フェアだと感じられるようにデザインできていなかった!」

バカ正直なフェアさは捨てて、プレイヤーを最大限楽しませるための不真面目さを持ちましょう

  • 時々こっそりBの目を「良い目」に変える?

  • 事前に「合計値が多いほうが勝ち」か「少ないほうが勝ちか」を決めさせる?

  • 1投ごとに勝敗を決めて、3回のうち2回勝利したほうを勝者とする?

  • 「奥の手カード」を出せば、振り直しができるようにする?

やりようはいかにでも。
開発者のモラルの問題もあります。(どこまでの不真面目さを許容できるか)

しかし、ゲームデザインの目的が「プレイヤーを楽しませる」ことであれば、自身のシリアスネスに疑いの目を向けて、不真面目さを取り入れるのは有益だと思います。

参考文献:
ゲームデザインに非対称性を使う。ゲームは根本的に非対称—... |作成者 Dru Knox |中程度 (medium.com)
デザイナーズノート:シンメトリーレッスン (gamedeveloper.com)

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