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何かを知ると何かを楽しめるようになる・・・だけじゃない。

twitterのサブカル界隈などでは「知れば知るほど、興味が広がり多くのことを楽しめるようになる」ということが語られます。僕もこの考えには基本的に賛同していて、人生や創作物をより楽しむために新しいことを知る努力を重ねてきました。

一方で、何かを知っていく過程でコンテンツを楽しめなくなるという側面があることにも最近気が付いてきました。例えば、「神」について。創作物の中にはよく「神」が出てきます。それは「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか」に出てくるような多神教的な神だったり、高次な存在をさす語としての「神」だったり。これまではそうしたものをそのまま受け取れていたのですが、最近は、特に後者の「神」という語が出たときにちょっとした忌避感のようなものを抱くようになりました。

僕にとっての宗教や神は、元々家は仏教の曹洞宗の檀家だけど、個人的には無宗教よりというスタンスでした。とはいえどちらかといえば唯一絶対の創造主を抱く一神教よりも、神道的な多神教の考えを気に入っている感じです。それでも、創作物における「神」に対して特別な感情を抱くことはありませんでした。

特別な感情を抱くようになったのは、大学院入試に向けた受験勉強で進化論や地球史についての勉強をしたことが大きく関わっていると思います。古来キリスト教を中心に生物は創造主が創作したものであるという考えが支配的でしたが、進化論では偶然に突然変異や自然選択という無機物的なメカニズムによって今の多様で複雑な生物が誕生したことを説明しています。また、宇宙誕生のビックバン以降に宇宙のチリから地球が形成され、海ができ、単純な高分子から様々な過程を経て多様な生物が生まれたと。

そうした考えは以前から知っていましたが、教科書や本を通してより深い理解をしたのはつい最近のことです。その考えがに納得し、その思考が自分の中で整っていくのに従って、理系に身を置きつつもざっくりと神の偉業としてのイメージがあった天地創造や生命の創造が明確に覆された感じです。「神は死んだ!」や「神などいない」と否定するところには至っていないものの、神の実在を理性でより疑う、疑問に思うように?なったのかもしれません。

そして「神」という語に過剰に反応するようになってきました。大好きなfgoの映画予告編を初めて見たときに、映像中の「神様から~」というセリフにさえピクっと反応した時は、ここまできてしまったのか・・・・。と少し落ち込みました。(結局予告編は怒涛の映像でいろいろな感情が想起されて、そのことはほとんど流れたのですが)

勉強の成果が身についてきているといえばよいことに思えるのですが、創作物を楽しめる余地が減ったような気がしてどうにももったいないことをしているかもしれないとも思うのです。物事には二面性があるものですね。

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