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休日考 ー悔いのない休日の過ごし方ー

「あーーー、今週末何したっけ…。」
休日の終わり、月曜日が目覚める15分前、日曜日の夜更けに思う。
どんな2日間を過ごしていても、この後悔に似た感覚に襲われるとすべてが台無しになってしまう。

休めなかった日々とその理由

思い返すと、高校2年生の個人研究(の授業)が始まったころから土日を忙しくさせて充実感を得ることを好んでいた気がします。様々な用事が重なって、14日間連続で高校の制服に袖を通したときにはその充実した日々を誇らしく思ってもいた。

それじゃいけないと気が付いたのは大学2年生のころ。講義、実験実習、バイト、営業インターン、充実させようと詰込みまくった予定とプレッシャーに耐え切れずに39℃を超える熱を出したことがきっかけでした。動いている車が急には止まれないように、走り続ける自分は止まれない。

予定のない休日を月に数度しっかり設けられるようになったのは今年に入ってから。気が付けば修士2年になっていました。
立ち止まれるようになったのは休むことの重要さを知ったから、自分の中で優先順位が決まって来たから。

休むことの重要さ

あれもこれもと詰込んだ高校、大学時代。
その詰め込んだことの成果が出たのかといえば、全くと言っていいほど成果にはなっていない。全部、中途半端。
残ったのは「何かをしようと躍起になった」という事実だけ。
隙間を見つけては何か新しいことを詰め込んでいくだけでは、広ーく、あさーくなるだけ。自分が目指した/なりたかった「何者か」には全く手が届かない。

では何が足りなかったのか。おそらくそれは余暇の時間。
人間は情報を整理するためには、ぼーっとする時間が必要。そうした時間で、動いて得たことを吸収して、深めていく。
そうした時間があるからこそ、活動時のアウトプットの質が上がるのでしょう。

優先順位

「自分は何をしたいのか」わからないけど、「何かになりたい」。あまりに強すぎる渇望感。

個々人は、個々人の持つ経験や知識が合わさったパッチワークに例えられるでしょう。当時の僕のように、無秩序に、目についたものに飛びついているだけでは無計画で不出来な仕上がりに。「ここ」と決めた地点に向かう家庭であれば、洗練されたデザインに。

今の自分は、大学院での研究に優先順位を置いています。
それが大学院浪人をしてでもやりたいことだったし、何かと並行しながら片手間でできるほど、自分が器用でもなければ、研究自体も簡単ではないから。

そのようにして道筋が決まれば、不要なこと、足を引っ張りそうなことからは手を引ける。その分空いたリソース(時間、資源、体力、気力)を割いていける。
あるときふと気が付いたのは、今まで通りに過ごして回復する気力や体力だけでは足りない。今まで以上に回復させるためには意識的に休まないといけないと気が付きました。

休めるようになった後の悩み

そうしてしっかり休むようになると、「あれ、この週末何したっけ」と感じることが増えて行ったのです。

休むことと、充実させたいという相反する希望。
自分はどうしたいのか、どうするのがいいのかを、休むことで手に入れた時間で自問自答しました。(時間に余裕があると、色々なことを、いつでも、何度でも考えることができるようになりましたね)

「休んだ方がいい」というのは理性の判断で、自分が根源的に休日に求めているものは「何か前進したという実感」。
意識の表層で休むことの重要さを実感・体感しても、高校時代から自分を突き動かしていた根っこの部分はそう簡単には変わらないようです。

だったら次に目指すのは、「休みつつ、前進する実感を得る」休日の過ごし方の体得。

昨日も何の予定もない休日。
「前進する実感」といえばということで午前中は読書をして過ごすも物足りない。近所を散歩をしてみてもまだ足りない。何かをせねばという思いが湧き出て止まらない。
夕方になってから、買い物と自転車屋に行くことに。買い物は、ずっと買いたいと思いつつ、平日は気力体力が足りずに買いに行けていなかった雑貨や冬服を求めて。自転車屋はメンテと空気入れで、こちらもずっと行けていなかったもの。合計2時間ほど出かけたところ、せっついていた衝動が収まっていました。

新しいコップなどで生活環境が良くなったからなのか、目的をもって出かけた結果目的を達成できたからなのか、それとも単に頭の中のtodoリストが硝化されたからなのか。

自分が休みつつも、後悔せずに週明けを迎えるために必要な条件を探っていきたいですね。

頂いたサポートは、南極の植物を研究するために進学する大学院の学費や生活費に使わせていただきます。