現代人が陥りがち(だと思ってる)な「調べる」についての勘違い
筆がノったのり、お風呂でぼんやり考えていたことを整理するためにも、2本目の記事を書いてるライアンです。
「調べる」っていうと、どんな行為をイメージしますか?
僕は「調べる」に対して「疑問への答え”そのもの”を探す行為」という狭すぎるイメージしかもっていなかったことに気が付きました。
インターネットは僕が物心ついたときにはかなり普及していて、小学校低学年のころには家でネットも見ていたし、調べ学習といったら一も二もなく、ネット検索をイメージしていました。
そのことに対して疑問感をもっていたけど、言語化するのに苦労していました。
言語化の機会を与えてくれたのは、村上春樹「1Q84」でした。
舞台は80年代。細かく、具体的な描写のお陰でネットがない時代に、登場人物たちが調べものをするシーンをはっきりとイメージすることができました。
彼らの調べ物と、僕のイメージしていた調べ物の違い、それは。
初手から答えを探しているかどうか。
これまでに僕がしていたのは、疑問への答えをそのまま書いているサイトや文献を探すという行為。
例えば、「大学時代にするべきことは何かを知りたい」と疑問を持ったら
「大学時代 すること」のような検索をして、
大学時代にするべきことは
1.海外旅行
2.アルバイト
・・・
いかがだったでしょうか。
みたいなサイトを探すこと。
これって要はどこかの誰かがかみ砕いてまとめた離乳食みたいな情報を食べて満足してる状態だともいえると思います。
(この表現は以下のツイートの影響です。めっちゃ的確。)
勿論、ネットですぐに答えに出会えるようになった事自体は本当に素晴らしいことだと思います。
ネットのいいところは、
・(答えがあるなら)答えにたどり着くまでが早い
・あいまいな検索でも案外探しものにたどり着けるところ
上のツイートも随分前に見てソースがわからなくて「大学 先生 情報 離乳食」とgoogle検索して再発見できたのでびっくりしてる。
一方、1Q84で登場人物(牛河さん)がしていたのは疑問への答えをくみ上げるのに必要な断片情報を積み重ねて、自分で答えを出すという調べ物。
例えば、ある事件にAさんが関係しているかもしれない。と疑問を持った時に
その日のアリバイ、お金の動き、住所登録、聞き込み、雑談などの一個一個では何もわからない情報を集めてブラッシュアップした仮説を立てる。
こういった調べものの仕方って現代でもバリバリ通用するし、
多くの人がネットですぐに答えそのものが手に入ると思っている今だからこそ価値が出せるんじゃないかって思うのです。
出来合いの答えでいいものはそのまま検索するし、それより突っ込んだこともデータなどをもとに自分で仮説を立てる。
そういった調べものの仕方ができるようになりたいと思うのです。
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