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弘法大師 遺跡(ゆいせき)十三山

第一番 善通寺(香川県善通寺市、真言宗善通寺派)

第一番はもちろん誕生の地、善通寺である。善通寺は空海の父で地元の豪族であった佐伯田公から土地の寄進を受け、空海が伝法灌頂を受けた長安の青龍寺を模して807年に創建されたと伝わるが、境内からは白鳳から奈良時代に遡る古瓦が出土している(当時は瓦は寺院建築にしか使用されていない)ことから、実際には空海誕生前より佐伯一族の氏寺としてすでに存在していた可能性も指摘されている。


第二番 施福寺(大阪府和泉市、天台宗)

古くは槇尾山寺と呼ばれた山岳寺院で、葛城修験系の寺院として創建されたものと考えられている。空海は793年、20歳の時にこの槇尾山寺において勤操を導師として出家剃髪し、沙弥戒を受けたと伝えられる。さらに唐から帰国後、平安京に入る直前の809年にも当寺に滞在していたと考えられている。中世には仁和寺の末寺とされたが南北朝の争乱で衰亡。近世に徳川家の援助で再興され以後は寛永寺の末寺となって天台宗に改宗した。


第三番 久米寺(奈良県橿原市、真言宗御室派)

空海は出家後数年を経た800年ごろ、当寺の東塔において後に真言宗の根本経典のひとつに据えられることとなる「大日経」を発見して密教に目覚め、入唐を決意したと伝えられる。また帰国後の807年にも当寺において初めて真言密教を宣布したと伝わることから、「真言宗発祥の地」とされている。


第四番 大安寺(奈良県奈良市、高野山真言宗)

空海の出家剃髪の導師を務め、また虚空蔵求聞持法も授けたと伝わる勤操は主に大安寺を拠点とした三論宗の僧であった。入唐前の空海にとっては仏教の最初の師たる存在であったと考えられ、帰国後も交流は続き、空海のもたらした新しい仏教のよき理解者となり灌頂も受けるなど、奈良仏教と真言密教の橋渡し役を担った。勤操の死後、829年からは空海自身が大安寺の別当を務めている。


第五番 東大寺(奈良県奈良市、華厳宗)

久米寺で発見した大日経を通じて密教と出会い、しかしその神髄を究めるにあたって国内での孤独な修行には限界を感じていた空海は入唐を目指すわけであるが、遣唐使は779年を最後に20年以上も途絶えていた。ついに803年に再開されるも出発後すぐに航行不能となり失敗。その直後の804年に空海は東大寺で受戒を果たして晴れて官僧となり、長期留学僧としてではあるが遣唐使に選ばれるのである。この入唐直前の慌ただしい受戒の手続きにも、奈良仏教の実力者であった勤操の強い後押しがあったものと考えられている。帰国後の810年にはついに東大寺別当に就任して奈良仏教の頂点に立ち、寺内に灌頂道場真言院を建立して奈良仏教の密教化を進めることとなる。


番外 青龍寺(中国陝西省西安市)

582年創建。当初は霊感寺と呼ばれたが711年に青龍寺と改称され、金剛頂経系と大日経系の双方の密教を相承した恵果が住持して以降は密教寺院として栄えた。805年5月に当寺を訪れ恵果と対面を果たした空海は、そのわずか3カ月後の8月には伝法灌頂を受けて「遍照金剛」の灌頂名を授かることとなる。同年12月、密教の神髄の全てを空海に伝授した恵果は息を引き取った。
845年には会昌の廃仏によって青龍寺自体も廃毀され、ここに中国の密教はその命脈を絶たれることになる。


第六番 東長寺(福岡県福岡市、真言宗九州教団)

密教の全てを相承し唐への滞在を継続する意義を失った空海は、伝法灌頂の翌年の806年には慌ただしく帰国を決める。804年に空海(第1船)や最澄(第2船)らと共に出発しながら途中で難破し入唐を果たせていなかった第3・4船が翌805年の再挑戦で入唐を果たしており、その帰朝の便に同乗。こののち再び30年以上の長きにわたり遣唐使は途絶えることになるため、この機会を逸していたならば空海が帰国を果たすことも、正統密教が我が国に伝来することもなかったであろう。ところが本来は20年の滞在義務を負う長期留学僧としての入唐であったためすぐには平安京入京の許可が下りず、しばらくは九州に留め置かれることとなる。この間に、密教東漸を祈願し自ら彫った不動明王像を本尊として建立したのがこの東長寺である。空海が創建した日本最古の寺とされる。


第七番 鎮国寺(福岡県宗像市、真言宗御室派)

空海は入唐に際して大暴風雨に遭遇し、このとき海の守護神たる宗像三神に祈誓を込めたところ、波間に不動明王が現れ、右手に持っていた利剣で波を左右に振り払い、暴風雨を静め、空海は無事に入唐することが出来たという。帰国後直ちに宗像大社を礼参し、「この地こそは鎮護国家の根本道場たるべき霊地」というお告げに基づき、神宮寺としてこの鎮国寺を創建したとされる。帰国直後より、密教に基づく鎮護国家、ならびに神仏習合の宣揚への意識が垣間見える。


第八番 観世音寺(福岡県太宰府市、天台宗)

帰国翌年の807年からの約2年間は観世音寺に止住したとされる。白鳳時代に創建され、東大寺と並んで「天下三戒壇」のひとつに数えらえる九州随一の古寺である。東に五重塔、西に金堂の川原寺式の伽藍を擁し威容を誇ったとされるが平安時代以降は度重なる火災や風害によって徐々に衰微していった。長らく東大寺の末寺とされたが明治以降は天台宗に改宗している。


第九番 神護寺(京都府京都市、高野山真言宗)

帰国から3年を経た809年、ようやく平安京への入京を果たす。この年の春には、のちに空海の最大の理解者となる嵯峨天皇が即位している。入京後まずは和気氏の私寺であった高雄山寺に住持することとなり、寺号を「神護国祚真言寺」とした。空海の入寺に先立つ805年に、最澄が当寺で日本初の灌頂を執り行っているが、812年にその最澄自身が空海から当寺で改めて灌頂を受けており、これを以て空海の伝えた密教こそが正統であるということが内外に示されることとなる。


第十番 乙訓寺(京都府長岡京市、真言宗豊山派)

811年、空海は乙訓寺の別当に任ぜられ、当寺において同年、初めて最澄との対面を果たしている。山深い高雄山寺に住む空海との面会に不便を感じた嵯峨帝が下山を希望したと伝わるが、他にもこの補任には早良親王の鎮魂の目的もあったと考えられている。785年、造長岡宮使の藤原種継暗殺の嫌疑をかけられた桓武帝の弟、早良親王はこの乙訓寺に幽閉され、無実を訴えて断食を続けた果てに淡路への配流中に憤死した。早良親王は若くして出家し親王禅師と呼ばれ、東大寺の初代別当良弁から後継者に指名されるなど奈良仏教の指導者の地位に立った。781年に兄の桓武帝が即位すると、その第一皇子の安殿親王(のちの平城天皇)がいまだ7歳と幼かったことから還俗し皇太弟に立てられたが、引き続き奈良仏教への強い影響力を持っていたことから、この早良親王の排除には長岡京遷都を阻もうとする奈良仏教勢力を牽制する桓武帝の意図があったと考えられている。しかしこののち安殿親王の発病、桓武天皇妃藤原旅子ならびに生母高野新笠の死、疫病流行や洪水など凶事が相次ぎ、早良親王の祟りであるとして鎮魂の儀式が繰り返された。800年には崇道天皇と追称され805年には淡路から大和への移葬も行われたが、翌806年に桓武帝自身も死去。代わって即位した平城帝は依然容体芳しくなくわずか3年で弟の嵯峨帝に譲位。しかし間もなくこの平城上皇の平城京遷都の詔を契機として薬子の変が勃発するなど政権は不安定であったが、
この変に際しての呪詛の成功、そして早良親王の鎮魂を通じて、空海は着々と嵯峨帝の評価信頼を積み上げていく。


第十一番 神泉苑(京都府京都市、東寺真言宗)

神泉苑は794年の平安京遷都とほぼ同時期に、当時の大内裏の南に接する地に造営された禁苑であった。もともとここにあった古京都湖(古山城湖)の名残の池沢を庭園に整備したものと考えられている。季節を問わずまたどんな日照りの年にも涸れることのない神泉苑の池には竜神が住むと考えられるようになった。824年の旱魃に際して淳和天皇の勅命により、空海と西寺の守敏がここで降雨の祈願を競うこととなり、天竺の無熱池から善女竜王を勧請した空海が見事勝利し雨は3日間降り続いたという。以後東寺の管轄下に置かれ請雨経法の道場とされた。空海の法力は民衆にも広く知れ渡ることとなり、真言密教は貴賤を問わず篤い信仰を集めていく。


第十二番 東寺(京都府京都市、東寺真言宗)

823年、平安京内に二か所しか設けられなかった官寺のひとつ、東寺が嵯峨天皇より空海に下賜された。当時の大寺では複数の宗派を兼学するのが常識であった中で、空海はこの東寺を密教専修の道場として他宗の僧の止住を禁じ、密教における師資相承の重要性を強調した。「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」という正式名称には、「金光明四天王護国之寺」との別称を持つ東大寺と並んで鎮護国家を担うのみならず、師資相承で伝えられる密教がこれより王の上に立って国家と王権を導いていくのだという、空海の壮大な国家観が込められているのである。すでに完成していた、顕教の尊格薬師如来を本尊とする金堂とは別に、伽藍のちょうど中心に新たに講堂を建立し、その中に立体曼荼羅を展開して密教の世界観を空間的に表現した。


第十三番 金剛峯寺(和歌山県伊都郡、高野山真言宗)

そして最後は空海入定の地、高野山。東寺下賜に先立つこと7年、816年に空海は高野山に密教道場の開創を嵯峨帝に願い出ている。こちらでは東寺の立体曼荼羅を上回る壮大な構想で、両界曼荼羅を象徴する東西の大塔を中心に一山全体を以て曼荼羅を表現する試みを展開している。しかし東寺とは異なり空海の私寺でしかなかった高野山の整備は遅々として進まず、実際に空海存命中に完成していた堂宇はわずかであったと考えられているが、亡くなる3年前の832年には初の万燈万華会が催され、その願文に「虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば、我が願いも盡きなん」という有名な文言が込められた。亡くなるその年まで精力的な活動は続き、835年1月に初の後七日御修法を宮中で執り行い、2月にはようやく金剛峯寺も定額寺に列せられ、そして3月21日に入定したとされる。死後に空海の兜率上生信仰が育まれ、高野山は真言密教道場としてだけでなく、弘法大師信仰の聖地として民衆の信仰をも集め続けることとなるのである。


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