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困っている子も、そうじゃない子も お互いの歩みよりが大切|工藤純子(児童文学作家)【前編】子どもの本のインタビューvol.4

子供の本に関わる人々のインタビュー第4回目は児童文学作家の工藤純子さんです。
バレリーナやパテシエに憧れる女の子達が成長していく姿を魅力的に描くお話をたくさん書かれてきました。
最近では学校を舞台にした作品にも意欲的に取り組んでいます。
私達がなんとなくおかしいよね?と思っているルールや、どういうこと?と思っている暗黙の了解などにユニークな視点で向き合っています。
そこにはいつも、困っている子ども達の味方になりたいという気持ちがありました。その創作の裏側について様々なことをお聞きします。

オリンピックに関する夏休みの宿題に疑問がありました

●コロナ禍でオリンピックが開催されました。学校観戦など問題になりましたが、感じたことなどはありますか?

学校観戦も反対でしたが、私の子どもの小学校でだされたオリンピックに関する夏休みの宿題もおかしいと思いました。競技から野球やバスケットなど8つ選び選手なども選んで、それについて感想を書くという課題です。 
 オリンピック観戦ができない代わりの課題であると校長先生から聞きました。コロナ禍でオリンピックそのものに賛否がある中、学校がオリンピックを推奨しているように感じました。それより、開催の是非そのものを子ども達に考えさせたほうがいいのでは、と思いました。
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サイコーの通知表

『サイコーの通知表』工藤純子・著/吉實恵・絵(講談社)
通知表がいつも「できる」ばかりでフツーなことに悩んでいる小4の朝陽。友達の大河や優等生の叶希ちゃんと話しているうちに、通知表で僕らの何がわかるの?通知表なんていらない!それなら先生の通知表をみんなで作ろう!という事に発展し、子ども達みんなで試行錯誤しながら通知表について考え直す物語。

通知表で疑問に感じる事がたびたびありました

●工藤さんの作品は学校の決まりだったり、暗黙の了解になっている事に疑問を投げかけるものが多いですよね。通知表についての思い出などはありますか?

 私は子供の頃、体育が苦手で「もう少し」がありました。その時に、私はダメなんだという気持ちになった印象が強く残っています。体育は、子どもに運動の楽しさを知ってもらうためのもので、苦手意識をもたせてはいけないと思います。
海外では順位をつけない、好きな競技を選べる(散歩などもあり)など工夫されています。

●劣等感だけが残ってしまうのはよくないですよね。運動ができるできないに関わらず、子どもなりのがんばりを見てほしいですよね。そういう意味で、通知表はできないところに目がいってしまう面もあります。通知表をテーマにした物語を作るきっかけは何かあったのでしょうか?

 通知表で疑問に思う事がたびたびありました。
 例えば
 算数●数量や図形に関心を持ち、進んで学習しようとする。
   ●見通しを持ち、筋道を立てて考えたことを表現する。
 国語●国語に関心を持ち、進んで学習しようとする。
(『サイコーの通知表』より抜粋)

 これは、読んでもすぐには意味がわからないですよね。大人でも難しい言葉です。「進んで学習している」かどうかなんて、何を基準にしているかわからないし、先生によって成績のつけ方が変わるっていうのも問題ですよね。   
 手を上げている人がいい印象を持たれて成績がよくなりがちですが、手を上げていない人もちゃんと勉強を理解しているのであれば、同じだと思います。しかも間違えられない空気があって、気軽には手を上げられない場合もあります。
 子ども達がなぜ「もう少し」なのかも考えて欲しいです。この物語に出てくるハシケン先生は「もう少し」をつけた時に、子ども達に理解させる力が足りなかったから自分も「もう少し」だと言ってるんですよね。

●逆に先生も子ども達から評価されるというのが、このお話の面白さですよね。特に、年配で厳しい大久保先生に通知表についてインタビューにいくシーンが面白かったです。大久保先生は最初は何でも聞いてくださいなんて言っていたのが、だんだんシドロモドロになって最後には怒り出すっていうのが痛快でした(笑)

 あの場面は挿絵にも注目です(笑)私の方から指定したわけじゃなくてイラストレーターさんからの提案でしたが、予想以上でした。イラストレーターの吉實さんに本当に共感してもらえたんだと嬉しかったです。

●こういう先生の考え方が変わってくれたらいいですけど。厳しい先生とは表面的にうまくやっていくべきなのか、それともしっかり意見をして議論した方がいいのか。現実的に子ども達にはどうあってほしいですか?

 自分の意見を言ってほしいという思いはあるんですけど、やっぱり難しいですよね。先生に意見するのを子どもに求めるのは酷かなと思います。そこは大人が動かなきゃいけない。先生が教える人、子どもが教わる人っていう関係性から見直して欲しいです。大人も、子どもから教わることはたくさんありますから。

今、夢で苦しんでいる子が多い気がしています。

●このお話で夢の発表会というイベントがありましたが、どうして登場させたんですか?
 
 これは、1/2成人式がモデルなんです。私はあれがあまり好きじゃなくて。親から手紙を書いて、子どもから手紙を書いて、みんなで泣くような演出に違和感があります。

●いろいろな家庭環境の子どもがいるから、やめようみたいな意見もあると聞いたことがあります。

 それもあるし、物語の中に出てきたお姉ちゃんみたいに、私は書きたくないって子も絶対いるから。それを大人が押しつけるのはどうかなと。行事というのは始めるのは簡単だけど、やめる時はなかなかやめられないんですよね。あまり行事を増やし過ぎて、先生や子どもが大変になるのもどうかなと思います。

●理想の形が先生達にあって、その枠の中で感動して欲しいのかもしれないですね。だけど、それに当てはまらない個性や、家庭環境の子もいますよね。そういう子ども達が嫌な思いをするのはよくないですよね。
 このお話でも主人公達は最初は親に気をつかって建前の夢を発表しますが、最後は子どもらしいユニークな夢で本音を言っていたのが面白かったです。

 今、夢で苦しんでいる子が多い気がしています。以前、町田市で講演をしたことがあったんです。「夢の叶え方」というタイトルを主催者の方がつけてくださったんですが、話の流れで「夢なんて持たなくていいと思うんですよね」となってしまって…。それは、娘の経験があったからなんです。
 中学の時に「夢をかなえるために人生設計をしましょう」みたいな宿題が出たんですよ。その時、娘は具体的な夢は無かったんです。それなのに、夢をもて、夢をもてってプレッシャーをかけられて。そのうち夢そのものが嫌になっちゃったんです。
 それがあったので、講演の時にタイトルと真逆のことを言ってしまいました。夢というよりも、好きなことを見つけるほうが大切だと言ったんです。その後のアンケートで「夢なんて持たなくていいって言われてホッとした」っていう意見がいくつもありました。案外、夢にプレッシャーを感じている人が多いのかもしれませんね。

●好きなことと、夢の違いはどんな所ですか?

 好きなことってシンプルじゃないですか。やっていて夢中になれるとか、苦にならないとか。夢というと、もっと生活に結びついているイメージです。まずは好きなことを見つけて、そこからじっくり夢を考えていければいいと思います。

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となりの火星人

『となりの火星人』工藤純子・著/ひろみちいと・絵(講談社)
空気が読めない、すぐにキレてしまう、パニックになってしまう、やさしいけど人を信じ過ぎてしまう。いろんな生きづらさを抱えているけど、悩んだり葛藤したりしながら、一生懸命学校生活をおくる子ども達。ぶつかったりすれちがったりしながら、次第にお互いの気持ちが通じるようになっていく物語。

「普通」も社会が決めるものだから、あいまい。

●この本には「困った子は、困っている子だ」っていう帯がついていたと思います。空気が読めなかったり、すぐにキレたり、困った子に見えて実は本人が困っている子ども達が主人公です。発達障害の特徴がよく出ていますが、発達障害という言葉が出てきません。使わなかったのはどうしてでしょうか?

 私は発達障害という言葉はレッテルを貼ってしまうと思っています。特別な子みたいになりますよね。そんな風に読んでほしくなかったので。困っている子達なんだけど、実は普通の子の延長線上でもあると思うんです。「普通」も社会が決めるものですから、あいまいですよね。 
 どんな子の中にだって、怒りっぽい、パニックになりやすい、注意力が足りないなんていう、苦手や生きづらさがあります。だから読者に、自分の中にも同じようなところがあると感じて欲しかったんです。

●この本を読んでいると、登場人物のどれかには自分と似ている子がいますよね。

 実際「私はかえでに似ている」「湊と同じ経験をした」なんて声がありました。差別や区別ではなく、自分自身を見つめてもらえたら嬉しいですね。

●このような困っている子達をテーマにしようと思ったきっかけはあったんですか?

 私自身も含め、世の中には生きづらさを感じている人がけっこういると思います。特に子どもの中に困っている子がいることを、大人にも子どもにも知ってほしいです。

●困ったところと、それをいかせる場面と、両方あることを意識的に書かれていると思います。どういう思いで書かれましたか?

 つい悪いところばかりに目がいっちゃいますけど、人って多面的なので、いいところも見て欲しい。
 その人の特性を認めてあげる人が周りにいたり、能力を活かせる環境があるというのがとても大切です。
 この本に出てくる、真鍋先生というカウンセラーの先生もうっかりやさん。大人でも困っている人がたくさんいます。そういう人だからわかる事もあるはずです。困っている子ども達も「こんな大人もいるんだ」と思える人が近くにいたら、心が軽くなるんじゃないでしょうか。

足を怪我している人に走れとは言わないですよね。それと一緒です。

●いろんな子がいていいんだよっていう意識が足りない気がしますよね。

 先生も大変だと思うんですが、寛容になる余裕がないんですよね。今の学校は30数人に対して、1人の先生が同じことを教えなくちゃいけない。決められた枠があって、その中で、同じようにできることを求めてしまう。
 だからつまづいている子がいると「困ったな」と思ってしまうのかもしれません。私にできることは、こういう作品を書いて知ってもらうしかないんですよね。もっと学校で発達障害のことも教えればいいのにと思います。わからないことは受け入れられませんから。学校や先生、保護者もわかってくれたら、もっと可能性が広がると思います。

●「落ち着きがないとか、衝動的なところがあるけど、それには理由があるんだよ」とか。普通の子達も困っている子達のことを理解してほしいですよね。

 そうなんですよ。それってワンセットなんです。できない子だけにがんばれというんじゃなくて、両方からわかりあえるようになってほしいと思います。困っている子達が自然と人に頼れるようになるためにも、相互の理解が必要なんです。

●このお話の後半に出てくる「自力で光ることができなくても他の星の光を跳ね返して光る星もあるんだ」という表現はまさにそうですよね。やはり発達障害は目に見えないというのが一番難しいところですよね。

 足を怪我している人に走れとは言わないですよね。それと一緒で、やはり理解は必要です。先生の中にも発達障害の知識が足りない人もいます。発達障害の子が困っているのに、わざとやっているみたいに勘違いされると親も大変です。ずっと苦しんでいるのに、学校でさらにつらい立場に追い込まれます。
 海外では「私ってASDっぽいんだよね」とか「私はADHD系なんだ~」そんな感じの会話ができると聞きました。そうすると、ちょっと遅刻しても「まあいいよ」とか忘れっぽい子には確認してあげるとか、そういう寛容さを持てるようになるかもしれない。そんなふうに、お互いが歩み寄れると思うんです。

●日本はこうあるべきっていうのが強いのかもしれないですよね。

 社会が厳しすぎると、結局自分自身の首をしめることにもなりますよね。どんな人でも、なにかしら苦手なことがありますから。だから、お互いの歩みよりが大切だと思っています。

●SNSの普及で、現代の子どもにとってクラスでうまくやることが優先されて、心が通じる友達を作るのが難しくなっている気がしますが、どう感じますか?

 空気を読むというか、相手をうかがっている間は友達って作りにくいですよね。浮かないようにしないといけないみたいな空気があるのはつらいです。SNSはうまく使えればいいですが、直接相手を知ろうとすることも大切ですね。

【後編へつづく】

工藤写真-修正


工藤 純子(くどうじゅんこ)
東京都生まれ。2017年、『セカイの空がみえるまち』(講談社)で第3回児童ペン賞少年小説賞を受賞。おもな作品に、『サイコーの通知表』『となりの火星人』『あした、また学校で』(ともに講談社)、『てのひらに未来』(くもん出版)、「恋する和パティシエール」「プティ・パティシエール」シリーズ(ともにポプラ社)、「リトル・バレリーナ」シリーズ(学研プラス)、「ミラクル・キッチン」シリーズ(そうえん社)などがある。日本児童文学者協会会員。全国児童文学同人誌連絡会「季節風」同人。

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