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プロフィール その1

はじめまして。あのころを語りたい、昔の事は思い出すけど、何かを取りに行って何を取りに来たのかわからなくなる、50代女性です。
職業、看護師です。配偶者と高校1年生の娘がいます。

おいたち

1968年8月。野口五郎の実家の隣の病院で生まれる。母の実家の近くである。母の里帰り出産ということで、出生時、父は仕事もあって、大阪にいた。休みの日、父は私に会いにくるために、父は台風(昭和43年台風第7号国際名:ポリー/Polly)の中、バイクに乗ってきたらしい。うーん、物心ついてからの父親像からはあまり考えられない暴挙である。父方、母方ともに私が初孫だったので、喜んでもらえたのだと思う。父も母も当時では晩婚(31歳と27歳。今じゃ若い方)であった。ハネムーンベイビーということで、そういう意味では相性も良かったのだろうと思う。受精の時から、運命に愛されている気がする。おひなさまは、人形を母方が、道具を父方.が贈ってくれた。なので、微妙にサイズが合わない。ひな人形のお道具はその後私の娘にいたるまで、お人形さんのお道具として、愛玩された。ミニチュアっぽくてなかなかかわいいので捨てられないものの一つである。

万博の年に弟が生まれた。これも初めての男孫だったため、大変に喜ばれた。弟とはあまり遊ばなかった。その2年後に妹が生まれ、弟と妹は活発に遊んでいたようだ。私は「おねえちゃんなんだから我慢しなさい!」とか言われながら本を読んでいたような気がする。そんな気する。

保育園の頃

保育園の頃、父の転職に伴い愛知県に来た。3~4歳ぐらいの事だと思う。妹は名古屋で生まれているから、そんなもんだろう。保育園で「タンポポ組」さんだった。 頭にたんぽぽのお面をつけて踊っている写真が残っている。この頃、国道41号の分離帯で、おままごとをして遊んでいるところをタクシーの運転手に発見され、母はさんざん怒られたらしい。よくぞ無事国道を渡ったものだと思う。人生を全うするのはこの時ではなかったらしい。神よ、私の使命は何ですか?(笑)。子供の目には、分離帯が公園のように広く思えたのだろう。41号に対する苦手意識は、案外このころに遡るのかもしれない。車で走るのは不得手である(といいつつ大学の頃は原付で走っていたという・・・。どれほどの迷惑行為だったのか、今になるとわかる、そんなもんです。ごめんなさい。)

幼稚園の頃

両親が持ち家を買ったのでお引越し。幼稚園に行っていました。ロールシャッハテストというのがあるが、あのようなインクのしみを作って、何かの絵に作り上げていくという遊びというか課題があった。尽きることのないアイディアで、ひたすら作品を作っていた覚えがある。子供の創造力というのは大したものだ。ガードレールから落ちてケガして、幼稚園の先生(確か酒向先生)が見舞いをしてくれたことは、金平糖一粒ほどの甘美な思いでとして今でも心の中に残っている。彼女からもらった「はとぐみ」と書かれたミッキーマウス(黒目の)のガーゼハンカチはいまだ手元に残っている。

「てるちゃん」というきれいでかわいい女の子がいて、彼女は私の憧れだった。薄茶色の髪、ストレートでおかっぱ頭だった。顔も美しく整っていて、小鹿ちゃんタイプといったら解るだろうか。森ガールの服装が似合うタイプである。中学校も彼女と一緒だったのだが、その件で一つ情けない思い出がある。校内の「陸上競技会」で好成績を取ったものが市の大会に出るのが中学校の陸上に対する姿勢だった。私は、走り高跳びで彼女より高く飛んだのに、選手にはなれず、彼女が選手になった。彼女は体育の先生のお気に入りであったことは周知であったが、なんだかなあ、と情けなく思った記憶がある。体育は苦手であったし、嫌いだったのでいいのだが、その後の何かを決定づけたエピソードのように思えて仕方がない。でも、わたしは「てるちゃん」のビジュアルが大好きだった。今、どうしているのだろう。きっと「憧れられる50代」になっているに違いない。

 幼稚園の頃は、モダンバレエを習っていた。幼稚園のフロアーに週1回先生が来て習っていた。習ったいきさつは覚えていないが、母が「宝塚に入りたかった」と言っていたので、裏にはそんな思惑があったのかもしれない。多分人生最初の習い事がこれだったと思うが、振り返ってみれば、これを続けていればよかったのかも、と思う。教室の端から端に大ジャンプ(グラン・ジュッテ?)するのが楽しかった。

小学生の頃

小学校に上がって、まわりの子はみんなピアノをやっていたので、「ピアノを習わせてください」とピアノを習うことになった。裕福でもない普通の家庭だったので、「ピアノ習うならやめなさい」ということであっさり辞めたが、裕福な家の子は、両方やっていた。ちーちゃんとまゆちゃんが2トップでピアノとバレエを競っていた。しかも、二人とも外人顔!ちーちゃんはキャンディ・キャンディ的古き良きアメリカを髣髴とさせるビジュアルで、まゆちゃんはルノアールの絵の少女のようであった。

ルノアール

 ちーちゃんとは職場で偶然出会ったことがある。私が勤めている医療法人のHCUで。法人の老人ホームに入れている旦那の親の調子が悪く、入院しているというのだ。「もう、そんな年か」としみじみ。「ちっとも変わらないね!」とお互い言いあっていた。本当にそう感じていたのである。客観的にはかなり老けているのであろうが、何故か「あまり変わっていない」と認識しているのだ。私は脳が認識していることが必ずしも客観的に「正しい」と思っていない。「見たいように見る」のが我々の脳だ。恒常性への志向であろうか。ちーちゃんの家の中心には、まだグランドピアノが鎮座しているような気がするのだ。

ご多聞にもれず、こんなことを書き綴る人間のほとんどに当てはまるような気もするが、小学生の頃の成績はよかった。自分が「ただの人以下」になるとは思いもよらなかった(笑)。算数は「お金の計算が出来ません」と親が言われるほどダメだったが、5段階の相対評価で3になったことはなかった。体育も苦手で嫌いだったが、体格に恵まれていたため5をもらえていた。市内の水泳大会で1位だったこともある。上位の子は、ほぼスイミングスクールに通っていたのだが、私は「特別水泳クラブ」という小学校の先生がやってくれる夏のプールの練習だけだった。実は1位になったのはからくりがあって、1位を取るはずだったスクールに通っている他校の子が、お腹が痛くて棄権したからである。また運命に愛されてしまった。

修学旅行のこと

こうして書いていると、色々なことを思い出す。集団行動が苦手で、コミュニケーションも苦手だった私にとって、キャンプやら修学旅行は地獄だった。「ゲームをするので、2人で(あるいは3人で)組を作ってください。」何故、こんな残酷なことが出来るのか。先生、割り算、出来ますか?余るんです、私が!思えは1年生の時、集会で6年生のおねえさん、お兄さんにカードを渡すというのがあった。みんな、渡す相手がいるのに、私にはいなかった。あるいは見つけられなかった。そっと、服の中にカードを隠したが、「あの子、まだカード持ってる」ということが先生にばれ、死んでしまいたくなるような、消えてなくなりたいような、悲しい気持ちになった覚えがある。それは、自分が孤独であることを白日のもとにさらされたような、赤剥けの皮膚を日光にさらされたような、ヒリつくような感情だ。人生の中で、この感情は、幾度となく自分を襲っていった。疎外感・・・というのであろうか。大勢の人間に囲まれているほど増幅していくこの感情。きっかけはもう思い出せないのだけれど、小学校の修学旅行のとき、おしいれに入り込んで、出てこれなくなかったという状態に陥っていた。「自分なんていらない人間だ、自分は必要とされていないんだ、私なんて消えてなくなればいい」。もう、めんどくさいを絵にかいたような子供である。4年生の時、「自分は切ったら血が出るから生きているんだ」という内容の詩を書いて国語の時間に提出したが、今の「リスカ」少女たちは、そのような面持ちで行為を繰り返しているのかなあと想像する。自分は「リスカ」はしなかったが、池田理代子先生の「おにいさまへ」のサンジュスト様に憧れていた。単純にワナビーだったのかもしれないし、そういう素地があるから好きになったとも言えよう。宿泊先の押し入れに潜り込み、存在を消していた自分であったが、自分の存在など関係なく物事外の世界は粛々と進んでいき、「世界ってそうなんだ」とDNAに傷がついた瞬間であった。こちらが傷つこうが、傷つくまいが、世界とはそんなものである。傷つくなんておこがましい。どんだけあんた、承認欲求強いの~?と思わざるを得ない。「他人は思うほどあなたのことを気にしてはいない」という位置取りができるのは、もうちょっと先の話となるであろう。

暗黒の中学校

中二病まっさかりである。校内暴力というのが蔓延しており、教師は竹刀を持って生徒指導を行っていた。今では考えられない。3年生の時の担任教師が嫌いだった。何故かというと、朝のラジオでアナウンサーがしゃべっていたことを、自分の意見のように話していたからである。今となれば、「おいおい、許してやれよ」と思うのだが、中学生の私は「なんていかがわしいのでしょう、教師なのに」と厳しかった。担任であったので道徳などの教科も彼の指導を受けた。ある日、『かちかち山』の話が出た。「君たちの読んでいる『かちかち山』は、おばあさんは死ななかっただろう」と言うので、「おばば汁にされて食べられました!」と反論すると、「お前に聞いてるんじゃない!みんなに聞いとるんだ!」と一喝。「私はみんなじゃないんだ!」と大泣きして学校を飛び出すこと数時間。どうやって戻ったのか覚えていませんが、めんどくさい生徒だったのだ。国語の先生に「あなたみたいな子は一人っ子でしょ」と言われた時も飛び出した。実際私は3人きょうだいなのだ。あと、隣の子にペンを返したら、「そこ、しゃべるな!」と言って頭の毛をむんずと掴まれ、、前に引きずり出された時も飛び出した。髪の毛が大量に抜けたが、反撃もした。掴まれた手に血がにじむほど爪を食い込ませてやったのである。逆上した彼に大量にビンタをくらったが、こちらはちょっと愉快な思い出の方に分類されるであろう。今考えると彼も私も滑稽だから。そう考えると、自分の娘が中学校の時に「学校を飛び出した」という話は聞かないので、「そこまで面倒な子じゃなくて良かったのかなあ・・・・?」と感謝するとともに、「別に1回くらい飛び出してもよかったかな?」と思っている。彼女は今寮に入っているので、もしかすると「今後寮を脱走しました!」という連絡が入るかもしれないな、と少し覚悟してみる。

部活は水泳部だった。部室で、廃品回収で手に入れたマンガ本を回し読みしていた。ある日、生理のため部活を休んでいた私が更衣室に行くと、色の白い、弱そうな男子が、棚に残った女子の水着を着ようとしていたのに遭遇した。彼は、私の姿を見ると、水着を脱ぎ捨て慌てて出ていった。真っ裸で大丈夫なんだろうか?と心配になったが、一応みんなや先生に報告。あの水着は誰のものだったのだろう、それは記憶の外である。またある日、部室にコンドームが落ちているという事件もあった。これは、男子が騒いで、先生に見せていたのだが、使用前の物か、使用後のものか定かではない。そんなものを見せられた先生の困惑した表情を、こうして書いていると思い出す。彼は、『日出処の天子』に出てくる「泊瀬部の大王(崇峻天皇)」に面持ちがよく似ていた(笑)。

世は『ジャンプ』派と『サンデー』派に分かれていた。ジャンプは、『ストップひばり君』『風魔の小次郎』『筋肉マン』『キャッツアイ』『Dr.スランプ』『3年奇面組』『キャプテン翼』『こち亀』『ブラックエンジェルス』『よろしくメカドック』『ウィングマン』などの連載があった。サンデーはこの頃勢いがあって、『うる星や』をはじめとして『タッチ』『さすがの猿飛』『究極超人あ~る』『TO-Y』などの連載があった。運動会にはマスコット作りというのがあり、各クラス、大きな幕に「優勝」とか「勝利」とかいう字を加えた絵を描く、というのがあった。3年の時、私たちのクラスは、『うる星やつら』のラムちゃんと、『ストップひばりくん』のひばりくんと、『キャッツアイ』の瞳を描くことになった。その担当となった私たちは残ってそれを制作していたのだが、仕掛けがあって、ラムちゃんのブラジャーが取れるようにしていたのである。まだ、親が運動会を見に来るご時世だったので、当日、ラムちゃんの「おっぱいぽろん」をして受けようと思ったのだ。しかし、この計画は何故か担任にバレてしまった。担任は「やり直し」を命じ、私たちは従った。だがしかし、である。こんなの、二度とないチャンスである。運動会前日、メンバーの一人のうちのガレージに集まって、ラムちゃんのブラジャーに小細工を仕掛けに行ったわけである。当日、してやったりで、父兄の爆笑をさらったのであるが、校庭の前に呼び出され、担任からビンタをくらったのだった。この時一緒にビンタをくらったはずの一人は東大に行き、今は市会議員をやっている。お疲れ様です。

80年代 洋楽シーン

マンガもだが、この頃はまっていたのが80年代ロック。『ベストヒットUSA』とか、必死に見ていた。マイケル・ジャクソンの『スリラー』で世界中が湧いていた。日本人ではYMOとか人気があって、大島渚監督の『戦メリ』もこの頃。志摩あつこさんの『8ビートギャグ』が好きで、学校の行きかえりはずっと「DURAN DURAN」』「JAPAN」「CULTURE CLUB」なんかの話をしていた。この時は完全に今でいう「腐女子」になっていた。よくもまあ、あれほど好きなものがあったという・・・。若さなのかなんなのか。あれも、これも、どうやって処理していたのだろう。今は仕事や家庭でで精いっぱい、好きなものなんてありません状態なのに。高校受験前の1月に、「受験頑張るから「DURAN DURAN」のコンサート行かせて!」と親に頼み込み、行ってTシャツだの缶バッチだのを買い込みご満悦。しかし、頑張る才能のない私は、親の希望する高校を受けず、違う高校に行った(嫌いな担任が薦めるところにいきたくなかったのだ)。その時の話が出る度に、「あの時は騙された」と母は苦々しく口にしていた。よっぽど怒れたのであろう。自分の子がそういうことになっても、好きなものは優先させあげようと今は思っている。

高校時代

のんびりした、ローカルな環境の高校に進学した。窓の外に赤とんぼの群れが見えるような、そんなところにあった。昼食の後は眠くなるので、赤とんぼやら、ちょうちょやらそんなものを見ながらよだれを垂らしてお昼寝していたような気がする。この頃から同人誌活動というのをはじめた。『ファンロード』という雑誌があって、「ローディスト」なる呼び方があった。こういった雑誌に投稿されるネタが面白すぎて、今あったら読み返したいものだと思う。『週刊少年ジャンプ』のジャンプ放送局も好きだった。『当初新体操部に所属していたのだが、同人誌作りたさに、美術部を作り、マンガ読んだりイラスト描いたり、勝手なことをやっていた。友達と即売会に行って、ファンロードの常連さんにスケッチブック描いてもらったり、本を買ってみたり、コピー本作ってみたり・・・。便箋なんかは印刷所で刷ってもらって売ったような気がする。1985年の夏、日本航空123便落事故があり、一般には坂本九さんが亡くなられたことで記憶に残っていると思う。夏コミに行くために乗っていた乗客も亡くなられているはずである。「同人誌持ったまま死にたくないなあ、親とか悲しむよね」と「オタク」迫害時代の私たちは考えたものだった。

その2に続いていいですか?


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