枠_フレーム_の向こう側を見つめていた04_02

『枠(フレーム)の向こう側を見つめていた』(4)社団法人ケンミン映画 / 小室準一

※全て無料で読めますが、今後の活動費に当てさせて頂きますのでよろしければご購入も頂けますと嬉しいです。

 「とりあえず生きて行かねば・・・。」
 新築の住居を追われ私たち家族は、防衛庁退職者援護会の紹介で藤沢に引っ越しました。父は心労で入院。私たち一家の危機に際して戦線離脱した父とはその後、疎遠になっていきます。
 軍人恩給と年金で家族の最低限の生活はできていたみたいで、私は私で自分の為にアルバイトを探す日々でした。印象深いアルバイトは、今は亡き日産自動車・座間工場で季節労働者と一緒に生産ラインに入ったことでした。まるでチャップリンの『モダンタイムス』状態でした。日本はまだまだ高度成長期。工場は24時間体制、1日8時間プラス残業3時間、1週間おきに昼と夜が入れ替わるハードな仕事でした。輸出向けダットサンが主力でしたね。この時の給与は手取り20~30万円、当時の会社員初任給が10万前後なので、かなり高額の仕事でした。しかしあまりにハードなので2か月で辞めました。この時知り合った町田のMさんの手引きで測量のアルバイトを始めます。Mさんはなんと原一男監督『極私的エロス・恋歌』の撮影応援で沖縄に行ってたそうで、その後スチル撮影やジャズなどいろいろ教えてもらいました。

 社会からドロップアウトして2年目。唯一の楽しみは映画でした。一人スクリーンに向っているときが一番心が安らぐ時間だったのです。特にこの時期、70年代の映画は刺激的でした。「イージーライダー」「真夜中のカーボーイ」「ワイルドバンチ」「ファイブ・イージー・ピーセス」アメリカのニューシネマが世界の映画を席巻していました。
 私はもう、まともに就職できないことは自覚していましたが、ある時「ひょっとして映画の世界ならまだ可能性があるかも」という悪魔のささやきを聞いてしまったのです。
 今ほどインターネットの情報もなく、相談する人もいなかったので、電車の広告をみて即、上野の千代田工科芸術専門学校・映画学科に入学しようと決めました。

 翌年入学。やっと社会とつながります。生徒は様々で、大学を落ちて行き場をなくした者や、大学に合格していても「経済学部はつまらないから」と乗り換えてきた者など、年齢もばらばらでしたが、私的には居心地の良い環境でした。

 映画撮影などはかなり専門的(当たり前ですが)な講義でしたから、私は教室の最前列に陣取り、講師の一言一句も聞き漏らすまい、という意気込みで臨みました。
 しかしまったく興味を示さない生徒も多く「なんだあいつら・・・」殺意!
 そして精力的に映画鑑賞の日々。
 池袋・文芸坐洋画2本立て¥300。文芸地下は邦画2本立て、こちらも¥300。
 週末にはオールナイトで黒沢明などの数本固め打ちで¥1,000ぐらいだったと思います。
 最初の1年は洋画ばかり年500本ぐらい、翌年は目が悪くなって裸眼では字幕が見づらいと、邦画ばかり500本ぐらい見たでしょうか。もちろん夜はアルバイト。新宿・小田急のフロア掃除でした。会社名は「TBS」太平ビルサービス。ベトナム難民の若者と一緒に汗を流しました。

 専門学校で特に印象に残る講義は美術の佐谷晃能(さたに あきよし)氏でした。東宝の美術などで活躍された方で、とてもダンディーでおしゃれな人。『伊豆の踊子』の山口百恵の裏話など、スタッフじゃないと分からない現場の様子が聞けるので楽しい授業でした。のちに撮影所の事故で半身不随になり、フリーランスのため労災がおりず訴訟までしましたが、闘病生活の途中で亡くなられたそうです。無念だったと思います。

 入学の翌年、横浜放送映画専門学院(現・日本映画大学)が開校します。あらら、それはないでしょう。経済的に乗り換えることは許されません。
 楽しい2年間はあっという間でした。卒業。
 しかし映像関係は就職難でした。
 学校が有力なコネをあまりもっていなかったこともあります。
 それでも学校で親しくなったN君は日活照明部へ、Iちゃんは機材屋のアルバイトが決まり、私は遅れをとっていました。
 400人ぐらいいた生徒のうち映像関係に就職できたのは数パーセントだったと思います。
 私は少しでも映像に関わりたかったので、求人誌を片っ端からチェックして「映写技師」の仕事を見つけました。

 東銀座にあるその会社の名は『社団法人ケンミン映画』。木造の商店のような古いビルです。社長はなんと「小室さん」でした。息子さんもいましたから同族会社なのでしょう。仕事は主張映写や映画フィルムのレンタルです。
 映写技師は「本物の?劇場用映画」の上映が主です。映写機は様々なタイプがあって、驚いたのは200Vの電圧で炭素棒を燃焼させるレトロなヤツ。400フィートマガジンで10分程の上映ですから2台の映写機を切り替えながら映写します。一台が終わるとそのフィルムを暗闇の中で手動で巻き戻します。それが終わると次の10分のフィルムを装填します。そして燃焼して短くなった炭素棒を手動で調整します。時々ピントもチェックします。かなり忙しい仕事でした。クセノン映写機もあってそちらはランプ式なので楽でした。

 毎週金曜日は、有楽町のあの「外国人記者クラブ」で封切り前の映画を上映します。これを一人で行かされるのですが結構大変でした。たとえば予告編はスタンダード、本編はビスタだと暗闇の中でアパーチャープレートを交換するのですが、あるとき間違えてしまって映写停止。映画を途中で止めるのは勇気がいります。交換中の静けさ・・・怖い。
 けれど上映終了後に一人の記者さんが「thank you」と握手してくれました。彼は失敗よりもその後の一生懸命リカバリーしているアジアの若造をほめてくれたのです。

 当時ビデオもプロジェクターもない時代。大阪、中の島・ロイヤルホテルのファッションショーで16ミリ映写機3台のマルチ画面映写と言う難しい仕事がありました。勿論コンピューター制御なんてものはありませんから、インカムの指示で二人で「せーの」でスタート。ところが映写機のスピードはバラバラです。ベルハウエル映写機の後部にはモーター軸が露出していますから回転の早い映写機はそれをハンカチでおさえてブレーキをかけるのです。原始的!しかも凄い熱を持つので水に濡らしたハンカチでやります。あんまり強く抑えたもんだからあわや映写機がひっくりかえりそうになりました。
 秋になると各大学から映画祭用の16ミリの注文がどっと入りました。東宝東和やヘラルドなどのおしゃれなビルへ行くときはちょっといい気分でしたね。
 そんなこんなであっという間に1年たってしまいました。こんなことで良いのだろうか。映画の制作が希望だったはずだ。
 小室社長のところへ辞表を持ってゆきました。「是非正社員になってほしい」と引きとめられましたが心を鬼にしてお断りしました。

 後に「ケンミン映画」は「シネフォーカス」という年商数億の都内有数の大きな会社になり息子さんが社長になりました。
 数年前、機材を借りに行って30数年ぶりに小室社長と再会。「シネフォーカス」のプロモビデオの制作を受注しました。
 ああ、人生ってメリーゴーランドみたい。
 さて「ケンミン映画」を辞めた私はまた流浪の旅を始めるのですが、あの日、あの時、恐れずに1歩前に踏み出せたのはひとえに若かったからだと思います。
 あの時フレームの向こう側に私は何を見ていたのでしょうか。 (続く)

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 今回のヘッダーの写真は40年前の都営電鉄です。早稲田〜池袋間だったと思います。

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 続いて、専門学校時代のノートです。こんなに勉強してたんだ、と自分でも驚いています。

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 最後に35mm映写機です。


【 小室準一(こむろ じゅんいち) プロフィール 】
映像ディレクター。
1953年(昭和28年)生まれ
1976年、千代田芸術学園放送芸術学部映画学科卒。
シネフォーカス、サンライズコーポレーション制作部などを経て、1983年よりフリーに。
1995年、有限会社スクラッチ設立。
https://scratch2018.jimdofree.com/
番組、PRビデオ、イベント映像、CM、歌手PVなど多数手掛ける。

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