枠_フレーム_の向こう側を見つめていた03

『枠(フレーム)の向こう側を見つめていた』(3) 学生時代 / 小室準一

※全て無料で読めますが、今後の活動費に当てさせて頂きますのでよろしければご購入も頂けますと嬉しいです。

 さて、前回までのお話は『我が家の破産騒ぎ』でしたが“記憶の糸”を辿ると芋づる式に「あ、こんなこともあったな・・・」と50年前の記憶が様々に蘇ってきます。もうすっかり忘れていたことが、まるで映画の回想シーンのようにランダムに思い浮かぶのです。という事で、時計の針をまた若干戻します。

 実はトンデモナイ映像体験をしていました。航空自衛隊熊谷基地。当時小学生の私と私たち家族は、基地に隣接する官舎に暮らしていました。確か金曜日の夜は基地内で映画を上映するのです。毎週のように私は近所の子と連れだってオンボロの婦人用自転車に乗って観に行ったものです。基地正門で家族通行証を見せると、守衛の隊員がパッと敬礼してくれます。これが妙に気持ち良かったです。映画の上映といっても、基地の中に映画館という施設はありません。巨大な格納庫が劇場に様変わりするのです。おおよそ千人ぐらいのキャパだったと思います。自衛隊基地は田舎の不便な所にありますから、隊員たちは映画をとても楽しみにしているようでした。鑑賞料金は、子供は50円。隊員も格安料金だったと思います(1970年当時の一般的な映画のチケット代を調べてみると大人は¥350円ぐらいですね。)

 ここで私は衝撃を受けます。プログラムはなんと洋画と邦画の二本立て。ある時は『マイフェアレディ』と『緋牡丹博徒』の2本立てでした。オーマイガ!

 荘厳な『戦争と平和』などの超大作とヤクザ映画をいっぺんに観るわけですから、“情操教育”の範疇を大きく逸脱していたわけです。この時期「時代劇の東映」は、東宝の黒澤明監督作品『用心棒』などのリアリティに負けて、それまでの歌舞伎的時代劇(刀で切っても血が出ない)に客が入らずやむなく任侠路線にシフトしたそうです。だからその反動からか血しぶきの凄いのなんのって・・・。鶴田浩二、高倉健、藤純子、 鶴田浩二、高倉健、藤純子、小学生の私にはとても怖い体験でした。

 またある時、何故か近所のおじさんに熊谷市内の映画館に連れて行かれました。そこで観た『007ゴールドフィンガー』の衝撃。スタイリッシュな演出、ジョン・バリーの音楽、アストンマーチンなどの秘密兵器の数々、やくざ映画のドロドロした世界から解放された気分でした。「あーなんてスマートな人殺し!」

 そして中学校は岐阜の各務ヶ原へ。航空自衛隊岐阜基地は国内に現存する最も歴史の長い陸軍の飛行場でした。ちなみに名古屋の三菱重工で製作した海軍のゼロ戦が初飛行した場所でもあります。岐阜ではそれまでとは打って変わって、全く映画を観る機会がなくなりました。どちらかと言うとアウトドア志向?基地の中に官舎があったのでちょくちょく双眼鏡を持って滑走路まで偵察に行きました。基地内なので柵がないのです。

 丁度、その頃の次期FX候補のF―4ファントムがデモフライトで飛来してきました。近所の悪ガキと滑走路わきの草むらをホフク前進。ベトナム迷彩のF―4が目の前で「タッチ&ゴー」をくりかえします。腹に響く双発のGEジェットエンジンの轟音。「すげえ!」

 その時、見張り役の子がすかさず報告。管制塔脇から黄色いジープが(基地内に不審者を見つけると出動するのです)。

 「やばい、撤収!」

 彼らは滑走路の向こう側ですから、迂回してくるには数キロあります。我々は余裕をもって撤退するのでした。

 そして転校。高校は所沢高校へ。官舎は航空自衛隊入間基地に隣接する公団型の住居でした。西武線稲荷山公園駅からすぐで、米軍やその家族も駐留していました。米軍用ハウスがあって、まだ戦後の「ジョンソン基地」の名残をとどめていました。
 今振り返ると当時は凄まじい時代でした。冷戦下のベトナム戦争の激化と核戦争の恐怖から世界中で反戦運動が巻き起こり、音楽はフォークもロックも反戦、反権力。それを象徴する「ウッドストック」のような歴史的イベントで若者たちは連帯していきました。   
 日本では学園紛争真っただ中。東大安田講堂の攻防戦。所沢高校にも学園紛争が飛び火して「学生服の廃止」を生徒会が主導。教職員も「日の丸掲揚や君が代斉唱の廃止」で争っていました。
こんな時代でしたが、私は意外にのんびりでした。またじわじわと「映画の虫」が騒ぎだし、一人でふらっと銀座まで。埼玉の高校生には銀座は敷居が高い街でした。当時松屋の近くにマクドナルド1号店が開店。ハンバーガーが1個¥360円(1ドル)でしたね。
「みゆき座」「有楽座」「スバル座」そしてあの70㎜シネラマの「テアトル東京」へ。 
 シネラマの巨大な画面でリバイバル上映の『アラビアのロレンス』を観て、またまた衝撃を受けました。映像と音響のもの凄さ。今でいえばアイマックスですが、50年も前の経験ですからね。

 一方でLPレコード代と映画代を稼ぐために、いろいろアルバイトもしました。変わったアルバイトとしては、横田基地でベトナムから搬送されてきたアメリカ兵の遺体を洗浄すれば1体1万円という破格のバイトの話もありましたが、さすがに・・・。
 そんなこんなで高校3年の時、ちょうど父が退職でなんとなく小室家は浮き足立っていました。退職金で建てた家に引っ越し、両親は再就職で長男の進学どころではなく、私は私で将来の進路も進学も考えず、そんな宙ぶらりんの状態で「あの破産事件」が起こったのでした。
 ただ不思議と「前途を悲観する」ような深刻な気持にはならなかったのです。
「我が家の事件は誰も知らない」
 転校生なので同級生との関係が稀薄だったこと、高校卒業で学校や地域との繋がりが切れたことが良かったのかもしれない。

「とりあえず生きて行かねば・・・。」

 この時、私はフレームの向こう側に何を見つめていたのだろうか。

 (続く)

画像1

今回の写真はF-86(愛称・セイバー)を背にした家族写真です


【 小室準一(こむろ じゅんいち) プロフィール 】
映像ディレクター。
1953年(昭和28年)生まれ
1976年、千代田芸術学園放送芸術学部映画学科卒。
シネフォーカス、サンライズコーポレーション制作部などを経て、1983年よりフリーに。
1995年、有限会社スクラッチ設立。
https://scratch2018.jimdofree.com/
番組、PRビデオ、イベント映像、CM、歌手PVなど多数手掛ける。

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