枠_フレーム_の向こう側を見つめていた01

『枠(フレーム)の向こう側を見つめていた』(1) 私の『ニューシネマパラダイス』 / 小室準一

※全て無料で読めますが、今後の活動費に当てさせて頂きますのでよろしければご購入も頂けますと嬉しいです。

 茶褐色のフレームの向こうに穏やかな春の陽光を浴びて、きらきらと輝く瀬戸内海が見える。なつかしさで胸が一杯になる。
 
 いつから私は映像を生業にしてゆこうと決めたのだろうか。もうすぐ六五歳になる私が、いまさらの記憶を遡ってみてもはっきりした答えは見つからなかった。

 私の意識の源流にあったあの瀬戸内海の情景が要因かもしれないが、はたしてそれが現実のものなのか、ただの夢だったのか。
 年をとるごとにその情景は鮮やかな天然色からモノクロームへと変質して、いまではそれさえも霞んで見ることができなくなってしまったのです。

 私が幼少の頃、父の仕事が航空自衛隊だったため、家族は二、三年おきに転勤していました。当時は単身赴任などはなく、まるでジプシーのように私も家族と一緒に転校の繰り返しでした。

 私が幼稚園の頃、当時の国鉄(現・JR)のローカル線は、まだ蒸気機関車が走っていました。
 夏場はエアコンがないので車両の窓を全開で走るのですが、折り悪くトンネルに入ると客車にどぉーっと煤煙が吹き込んできます。 
 親があわてて窓を閉めますが時すでに遅し。煤で真っ黒になった顏を母親に拭いてもらった、そんな記憶があります。

 山口県から栃木県の幼稚園へ転入する時のこと。当時は新幹線も飛行機もありませんから、たぶん2日がかりで山陽本線、東海道線を乗り継いで移動したと思います。
 私は茶褐色で木製の列車の窓に流れる景色を、ただぼーっと見つめていました。山や川や、海や町が、走馬灯のように流れて行きました。「飽かず眺む」というか、ゲームも本もなかったから、子供にとっては仕方なくだったのですね。
 そしてきっと、幼少の私には、その茶褐色の木製の窓枠は、まるで映画のスクリーンだったのです。

 カタン、コトンというレールの単調な響きは、さながら映写機がフィルムのパーフォレーションを掻き落とすカタカタという音のように聞こえていたのでしょう。
 今ではもう見ることのできなくなったあのうららかな瀬戸内海の情景は、きっとこの時の記憶だったのではないでしょうか。

 さて、転入することになった栃木県の幼稚園なんですが、なんと、親がトチ狂って宇都宮の名門「作新学院幼稚部」へ転入することになりました。
 そこはもう、えらいセレブな学校で、ピアノやヴァイオリンを習っている子も普通にいて、正真正銘「庶民の私」には、それこそ非現実の世界でした。しかも土曜日には外国人のシスターによる聖書の読み聞かせと讃美歌の斉唱!
 私はそのおかげ(?)で今でも「モロビトコゾリテ」の「しゅはきませり、しゅはきませり」だけは歌えます(笑)。

 結局のところ、私が小学1年生の半ばになった頃、高い学費に音を上げた親は私を県立の小学校に転校させることになります(おいおい!)。
 そんなこんなの現実と、文字通り「住む世界が違う」という疎外感とで、私はその頃から一人遊びをすることが多くなりました(やれやれ!)。
 そして小学校2年の時、今度は宇都宮から埼玉の熊谷へ転校。新しい住まいとなった官舎(自衛隊の住宅)はなんと米軍のハウスでした。
 部屋は洋間ばかり(あたりまえですが)6部屋ぐらいあり、お風呂はボイラーで石炭を炊いて沸かすのです。またもやカルチャーショック‼︎
 私は暇さえあれば広い洋間にごろごろ転がって鉱石ラジオでFENを聴いてました。
 そして、この頃からいよいよ閉ざされた世界へ向かう私。

 当時フジテレビでは毎日午後3時から5時まで「午後の名画座」という番組で、洋画を放映していました。そこにはなんと、フランスやイタリアの良質な映画ばかり!学校が終わると飛んで帰ってモノクロのテレビにかじりついて観たもんです。
 
 かなり地味な映画が多く出演者やタイトルなどはほとんど覚えていませんが、ラブシーンが始まると親の目を気にしてドキドキ、ラブシーンに目を移してはドキドキ、浮き足立って鑑賞してました。
 今思えば画期的な番組でしたね。こういう事の積み重ねも映像へのモチベーションの基礎になっているのかもしれません。
 また、漫画も一杯読みました。
 『少年画報』、『冒険王』、『少年マガジン』、『少年サンデー』、『少年キング』、・・・
 一九六〇年代は漫画の黄金期だったと思います。赤塚不二夫『おそ松くん』、ちばてつや『ちかいの魔球』、桑田次郎『エイトマン』、森田拳次『丸出だめ夫』、石ノ森章太郎『サイボーグ009』、望月三起也『ワイルド7』・・・錚々たる作家さんばかりで私はすっかり漫画中毒になりました。

 結果、現実逃避と空想の日々が・・・。

 あるとき私は何を血迷ったか「漫画家になろう」と思い立ちます。製図用インクやペンを買い込んではせっせとコマ割り、べた塗りの日々。 
 しかし、ただ絵のタッチをマネして描くだけの漫画だったので、すぐに壁に突き当たりました。

 ストーリーが創れない!(がーん!)

 猿知恵でした。
 学校の美術の成績は良かったのですが、美術系の学校に行きたいと親に懇願すると「絵描きでは食ってゆけない。」と一蹴されます。
 けれどもこれはのちに非常に役に立つことになるのです。
 そうです、絵コンテです。
 映像を演出するうえでストーリーボードを創ると、一緒に仕事をしたスタッフから「分かりやすい」、「これで飯が食えるよ」という御誉めの言葉をいただきました(真剣に物事に取り組めば、いつか役に立つ日が来るものなのですね)。

 「継続は力」「断続も力!」

 幼少期の思い出をあれこれ綴ってみましたが、今となっては、あれは私の『ニューシネマパラダイス』だったのではないだろうかと思い返しています。
 そして私の人生は、さらにアンビリーバブル!な紆余曲折を重ねて行きます。

 続く・・・

画像1

今回の写真はたぶん山口にいた頃です。
貧乏だったので、車はよその人のです。
母に手をつないでもらってるのが私。

【 小室準一(こむろ じゅんいち) プロフィール 】
映像ディレクター。
1953年(昭和28年)生まれ
1976年、千代田芸術学園放送芸術学部映画学科卒。
シネフォーカス、サンライズコーポレーション制作部などを経て、1983年よりフリーに。
1995年、有限会社スクラッチ設立。
https://scratch2018.jimdofree.com/
番組、PRビデオ、イベント映像、CM、歌手PVなど多数手掛ける。


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