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身体を手放す事、心を手放す事 ルアンポー・プラモート師

人形劇を観ているように

心を観ていくのですよ

さまざまな人形がそれぞれの演技を見せる様に

私達はそれらを観ていくのです

善き事も生じてきます

欲も生じてきます

怒りも生じてくるのです

しかし

演じてくる人形も

現れては去ってゆくのです

心が知る

生じるあらゆることは

生じては滅してゆくのです

ルアンポーも心に生じる演劇を

ただただ観て行ったのです

ただただ4か月見続けて行ったのならば*

解るようになったのです

これは自分ではないと

それぞれが

それぞれの働きをしているだけなのだと

解るようになったのです

智慧が生じたのです

戒・サマーディを訓練し

智慧が進んでいったのです

そしてある日

解るようになったのです

「わたし」というものは無いのだと

そして

もう一段上の智慧になると

身体は「わたし」ではない

心は「わたし」ではないと

解るようになるのです

どこにも「わたし」というものは無いと

解るようになるのです

身体の外にわたしというものは無いのです

身体そのものも「わたし」では無いのです

楽・苦・善・不善も「わたし」では無いのです

心も「わたし」では無いのです

このように観えてくるのです

五蘊も「わたし」でも「わたしのもの」でも無いと

観えてくるのです

ですから

ただただ修習を続けていくのですよ

智慧を高めてゆくのです

次には

真実が観えてくるのです

身体は「わたし」では無いのです

「わたし」でなければ何なのでしょうか?

それはドゥッカ(苦)なのです

身体は苦(ドゥッカ)なのです

身体はわたしでは無く苦(ドゥッカ)なのです

身体が苦であると観える様になったのならば

心は身体への執着が無くなるのです

これはアナーカミー(Anāgāmī)/不還果なのです

身体への執着が無くなるのです

身体の執着が無くなるとは

身体とは

目・耳・鼻・舌・身体の事です

目に執着しなくなるのです

名(ルーパ)に執着しなくなるのです

名(ルーパ)の中を愛でたり喜ばなくなるのです

そして業を洗い流すのです

欲(ガーマ・ラーカ)を洗い流すのです

そして

次に残っているのは心だけなのです

もう既に心は「わたし」では無いと

観えています

心が「わたし」ではないのならば

心は何なのでしょうか

心は苦(ドゥッカ)なのです

身体はわたしでは無いと観えるのは

予流果(Sotapanna)に観えています

では身体は何でしょうか

身体は苦であると観えているのは

不還果(Anāgāmī)に観えています

では心は

心は「わたし」では無いと観えているのは

既に予流果に観えています

心は何でしょうか

心は苦(ドゥッカ)なのです

心は苦(ドゥッカ)であると観える所へ

到達したのならば

心を手放すことが出来るのです

心を手放すとは

五蘊を手放すことなのです

仏暦2566年5月14日

*師が在家の時にルアンプー・ドゥン師の教えで心を観ていった


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