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頑張って感覚を感じようとすることは既に間違いです ルアンポー・プラモート師

少しづつ

訓練していくのですよ

まず初めに

感覚を感じられるようにならなければなりません

感覚を感じることは法の実践の

一番初めの事なのです

では

どうすれば「感覚を感じる」ことが出来るのでしょうか

先日の金曜のことです

ルアンポーは在家者に

実践を教えていました

在家者はもう長い間訓練してきた人でした

「感覚を感じるように」と

ルアンポーは言いました

すると

「今、がんばって感覚を感じようとしています」

と在家者は答えました

「それは正しくありませんよ」と

ルアンポーは答えました

例えば

座っていることを感じるために

私達はがんばって何かをしなければならないでしょうか?

心を緊張させないと

身体が座っていることを感じることができないでしょうか?


何もしなくて良いのです

今現在、自分が座っていることがわかりますか?

これほどに簡単なことなのです

しかし

私達はそれが出来ないのです

感覚を感じるには

心を動かさずに

緊張させて

心を緊張させる

そして、、感覚を感じました。。。

というのは

既に心が飾り立てられることに

はまり込んでいるのです

これを「感覚を感じる」とは言わないのです

本当は

心が飾り立てられることに浸り込んでいるのです

ですから

感覚を感じる時には

感覚をそのまま感じるのです

心を緊張させたり

動かないようにしたり

する必要は無いのです

座っている感覚が感じられますか?

呼吸が出ていく感覚が感じられますか?

呼吸が入っていく感覚が感じられますか?

どうですか難しすぎますか?

私達は容易なことを難しくしているのです

瞭然と明らかなことを謎にし

複雑にしてしまっているのです

ダンマは本当は包み隠さず明らかなものなのです

ですから

精進するのですよ

ダンマがわかる時には

驚愕するものなのです

「明晰にはっきりしておりました、師よ」

となるのです

それはひっくり返ったものを

ひっくり返すようなものなのです

どこにも難しいことは無いのです

ふたを開ける事

どこにも難しいことはありません

ふたを開ける

ですから

私達は心を

普通ではない状態に飾り立ててはいけません

そうすると

心が緊張して

動かない様になってしまいます

これは

心が飾り立てられている最中なのです

気づきを間に合わせるのですよ

普通の心で知る事を間に合わせるのです

飾り立てられていない心で知るのです

飾り立てられていない心で感覚を感じるのです

すると

五蘊を分けることが

進んでいくのです

五蘊を分けることが出来たのならば

五蘊のそれぞれの三相(無常・無我・苦)が

観えるのです

三相が観える様になったのならば

次には正道(アリア・マッガ)が生じるのです

仏暦2566年6月6日

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