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インドネシア滞在記⑩恐怖のレバラン

ラマダンも終わりに近づいたころ、「そういえばレバランはどうするの?」とニルマラにと聞かれた。特に何も考えてなかった私は、みんながいなくても1週間くらい1人で家でのんびりすれば何とかなるだろうと思っていたが、その甘い考えは、すぐさま打ち破られた。聞くところによるとレバランの期間は里帰りで空っぽになっている家を狙って空き巣や犯罪が多発するらしい。信仰を深め、慈悲の心を実践するラマダンを終えたお祝いだと言うのに、完全に本末転倒である。かつてIPBに留学していた御田さんという先輩からも私が住んでいるパルムティガにもかつて泥棒が入ったことや、近くのモスクで射殺事件があったことなどを伝えられ、「レバランに一人で大学に残っていたら死ぬぞ」と脅された。
そうは言っても、インドネシアに家族もいなければ頼れそうな知り合いもおらず、いっそ旅行にでも行こうかなとも思ったがすでに時遅しで、レバラン期間の航空券はバカ高いうえにほとんどが売り切れていた。
そんな途方に暮れた私を助けてくれたのは、リリック先生の部下のエリンさんという女性だった。エリンさんはかつて私と同じ筑波大の増田先生の研究室に留学していたことがあり、日本語がペラペラでさばさばしたかっこいい女性だった。私の状況を知ったエリンさんは「じゃあ私のムディック(Mudik)についておいでよ」と軽いノリで言ってくれた。ムディックとは、インドネシア語で里帰りのことで、ムディックがどんなものかはよく知らなかったが、レバラン中に大学の中で死ぬことだけはどうしても避けたかった私はエリンさんからの有難い提案を迷わず受け入れることにした。

 エリンさんのムディックの目的地はソロという中央ジャワに位置する素敵な街で、聞けば途中バンドゥン、ジョグジャカルタという街で親戚の家を回ったり観光したりしながら、自家用車で行って帰ってくるという。ボゴールからソロまでは片道700㎞くらいあったので、単純計算で往復で約1400㎞である。その距離を車で往復すると聞いて内心不安になったがもう引き返すことはできない。そして遂に、エリンさんと、エリンさんのお母さんとお父さん、そして弟のチャンドラさんとそのお嫁さんのベビと一緒にムディックに出発する日がやってきた。
普通に考えたら、1年に一度の家族の大事なイベントに言葉もろくに話せない得体のしれない外国人が付いてくるなんてちょっと異常事態なのに、エリンさんの家族は嫌な顔一つせず私を一緒に連れて行ってくれた。エリンさんは「そんなこと気にするなんて思いつきもしなかった」とでもいうかのようにいつもニコニコして面倒を見てくれたし、ベビはまるでお姉ちゃんみたいに優しかった。

 それなのに、私はどうしてもエリンさんのお母さんだけが苦手だった。初めて会った時、「この人は魔女かもしれない」と思った。結構高齢なのに手足はがっちりしていて声が低く、眼鏡をかけて角ばった顔をしていた。道中の車中では、体が小さい私は3人掛けの後部座席の真ん中で、いつもエリンさんのお母さんの隣だったが、顔の横で3分に1回くらいずっとカエルの鳴き声のようなゲップをされるのがものすごく嫌だったし、いつも「マカーン(ご飯を食べる)」と「マンディー(水浴び)」ばかり言っていた。1日に何回も「マンディはしたのか」と聞いてくるので私は朝は顔を洗うだけだったので、そのことを伝えると絵に描いたように鼻をフンと鳴らして「不潔だ」と笑われた。自分の服をごしごし洗面器で洗って干していたら「自分のことは自分でやれ」と、自分でやっているのになぜか怒られた。まだインドネシアに来て日が浅く、私の語学力はまだまだだったけど、エリンさんのお母さんの放つ言葉だけはほとんど理解できた。
 世界遺産のボロブドゥールとか、プランバナン寺院とか、ソロの朝市とか素敵な観光地にも寄ったしそれなりに素敵な思い出もあるのに、レバランを思い出すたびに、強烈なエリンさんのお母さんの顔が一番に頭に浮かんでくる。
あまりにも車に座り続けてだんだんお尻と背中がおかしくなってきていたし、毎日のように初めて会うエリンさんの親戚の家に次々と泊めてもらい、「日本から留学で来ました、名前はアンです。好きなインドネシア料理はソトアヤムです。」と何十回も同じ自己紹介をしてものすごく気疲れしていたが、お世話になっているエリンさんに辛いともいうわけにはいかず、途中からは毎日泣きそうになりながら、ボゴールに帰れる日をこっそり指折り数えていた。

 そんなわけでなんとかレバランが終わり、がちがちになった背中とお尻の痛みをお土産にやっとの思いでボゴールのパルムティガに帰ってきた私は、すでに里帰りから戻っていたニルマラとフィフィの「おかえり!」という声を聴いて心からホッとして、また涙が出そうになった。そしてもう2度と、誰かのムディックにはついていくまいと心に誓い、熱をだしてその後何日か寝込んだ。



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