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インドネシア滞在記⑱授業と蜘蛛の糸

 さて私はインドネシアでただ遊んでいたわけではなく、一応ちゃんと授業を受けたり調査もやっていた。授業に関しては、英語の授業なんてあるわけなかったので来て早々にいきなりインドネシア語の修士課程の2つの授業に放り込まれた。授業は日当たりのいい2階の教室で行われていて、先生の「アッサラームワライクム」というイスラム教式の挨拶に、生徒が一斉に「ワライクムサラム」と答えるところから始まる。ムスリム以外の生徒はどうしてるんだろうと思いながら、私もみんなに紛れてこっそり「ワライクムサラム」と答えていた。
 最初こそ気合を入れて、なんとか先生が喋っていることを聞き取ろうと、目を見開き、集中して耳を傾けていたが、実際のところ1/3も理解できていなかった。たまに日本の話題を先生がふってくれたが「日本人はなぜ宗教を信じないのか」という重すぎる質問をされ、それがその日唯一ちゃんと聞き取れた話題だったのに、そんなこと生まれてこの方考えたこともなかったので、もはやインドネシア語以前の問題で全く答えられず、恥ずかしくて穴があったら入りたかった。
毎回ちゃんと宿題もあって、私は授業が終わるたびに放心状態になり、宿題もよくわからないし段々授業に行くのが嫌になっていた。毎度授業が終わると虚ろな目をして抜け殻のようにふらふら彷徨っている私を見て、どうやら私が全然授業の内容をわかっていないようだということを察知したアグスが、ある時、授業を携帯で全部録音して持っておいでと言ってくれた。アグスもアゲもその授業を取っていなかったのに、録音を聞きながらわからないところを教えてくれたり、一緒に宿題を見てくれた。他の友達も色々助けてくれ、その天から垂らされたきらきら光る蜘蛛の糸を登りながら、私は少しずつ目に輝きを取り戻した。授業の内容がわかることよりも、その気持ちが嬉しくてたまらなかった。期末テストはさすがに2人を召喚するわけにはいかず、適当なインドネシア語でなんとなく乗り切ったが、ちゃんと単位をくれたので、蜘蛛の糸は切れずに済んだ。

 私は何か2人にお礼がしたくて、張り切ってアンコットを乗り継いで街で一番大きなショッピングモールに行ってハラル(ムスリムが食べてよい製品)のカレー粉を手に入れ、日本のカレーを作ってごちそうすることにした。それなのに、わたしの住んでいた家は男子禁制だったのでアグスは中に入ることができず、結局彼だけ玄関先で暑い中、大盛のカレーを立ち食いさせることになってしまった。多分そんなに美味しくなかったのに、汗をだらだら流しながら「美味しい」と言ってくれた姿を思い出すと、優しい風が胸にそっと吹きぬけてきてなんだか少し泣きそうになる。授業で習ったことは全然思い出せないくせに、そんなことばっかりよく覚えている。

 こうして授業も終わり、私はいよいよ修士論文の研究に向けて、重い腰を上げてようやく動き出した。研究テーマも、調査地もなんとか決まり、来たる現地調査に向けて準備を進めることになった。

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