「花束みたいな恋をした」レビュー
先日、遅ればせながら「花束みたいな恋をした」を鑑賞した。
Awesome City Clubの「勿忘」につられて観に行ったけど流れないんかい!とか、カップルで観たら別れるとか、普通につまらないとか、観る前から情報が様々飛び交っていて、(ACCが勿忘で一気にメジャーバンドになって嬉しいやら悔しいやらという気持ちも相まって)なんだか上映期間は観る気になれなかった。
上映期間も終わって流行りも落ち着いた近頃、久しぶりに行ったTSUTAYAでたまたまこのタイトルを見つけた。他に洋画を何本か借りたので、まあ邦画も一つぐらい借りておくか、ぐらいの気持ちで借りたのだが…
結論から言おう、
めっちゃ面白かった!!!!!!
この映画の見どころは?
何と言っても見どころは、別れ話をするファミレスのシーン。麦(彼氏)と絹(彼女)は二人とも別れを考えていたが、土壇場で麦がごねる。固い意志で別れを貫こうとする絹に対し、(やはりこういう時は女性の方が芯が強い笑)麦は「恋人はだめでも家族ならうまくいくだろうからやっぱり結婚しよう」とどうにか説得を試みる。絹も少しずつ心が動いてきたところで…
近くの席に若いカップルが座る。その二人は付き合った頃の絹と麦と同じで、好きな事を好きなだけできて、心が向いている方向は同じだ。ついでに靴も同じ。(この映画において「同じ靴を履いていること」は非常に重要なのだ!)そんな二人の様子から、付き合う前の一番華やかな思い出が蘇り、絹と麦は涙が止まらない、そういうシーン。
絹と麦はハードルを下げて下げて、一緒にいるのが辛いけれどもそれに耐えて結婚しようとしているのだ。そんな時に楽しかった昔の自分たちを目の当たりにして、「何て不毛な事をしているんだろう」と胸を突き刺されるような悲しさに襲われる。あまりにも残酷で、でもこれ以上ないぐらい完璧な「別れ方」だったと思う。
「違和感がない」ってめっちゃ大事!
この映画は出会い、付き合い、そして別れるまでの状況と心情の描写が丁寧で、かつ全く違和感が無い。
映画を見る上で「違和感がない」ことは非常に大事だと思う。
活字で物語を読むよりも、映画で物語を観るほうが違和感の有無が気になる。それはおそらく、活字の方が圧倒的に情報量が多いためだ。(小説原作の映画で物語が大幅に省略されていることが多いのは、おおむね3時間という制限下で詰め込める情報量が少ないからだ。映画は視覚的な情報量は多いが、物語としての情報量は少ない)
情報量が多ければ、自分に共感できないような行動をしたとしても、その登場人物の性格や行動傾向がある程度共感できる。「ああこの人は普段からああいう人だから、こういう行動をしてしまうのも分かるな」という気持ちになるのだ。しかし映像は情報を詰め込みにくいので、人物を掘り下げる描写が不足しがちだ。だから登場人物の行動は「自分」を軸に考えざるをえなくて、「自分の感性と違和感がある」映画にはモヤモヤとつまらなさが残る。
映像は「情報の質」に差を付けられる!
もう少し情報量の話をしたい。
基本的に小説では、物語の本筋からずれる描写はしない。例えばこの映画では、泣いている絹を麦が迎えに行くシーン、そしてその後のシーンでも「常に帰宅途中のサラリーマンが大勢歩き続けている」。小説ではこういう描写はできない。描写するとしても一度「駅では仕事帰りのサラリーマンでごった返している」などと書いたら、その後のシーンの途中でも「サラリーマン達はなおも歩き続けている」と書くことはありえない。もしそう書くとしたら、この後「歩いているサラリーマン」に何らかの意味がある時だけだ。
映像は「ピントを合わせる」ことで「情報の質」に差をつけることができるが、文章では情報の質がどれも均一にならざるを得ない。だから小説では映像と同じことができないのだ。
これが、映像表現の欠点でもあり素晴らしい所でもある。そういう「無駄な情報」が多いと、本筋の情報が小説ほど表現できないのは難点だが、逆に言うと小説は物語の「エッセンス」の部分しか表現できない。その物語で筆者が表現したい事、伝えたい事、物語に関わってくることは伝えられるが、映像ほどその場面のリアリティ、空気感を出すことはできないのだ。
「瞬間的な情報量」という点で、映像は活字を圧倒的に上回る。本筋とは関係のない情報であっても、私たちの脳はその圧倒的な視覚的・聴覚的情報量からその場面の空気感を感受しているはずだ。映像も小説も一長一短だなと思う。
多分この監督とは仲良くなれる
この映画において、とにかく描写に違和感が無かったのでこの監督とは気が合うと思う。以下、自分好みの表現を列挙してみる。
・付き合いたての頃は同じ靴を履いていたが、麦が就職した後は別々の靴が玄関に並んでいる描写。髪型とか読んでいる本とか色々な「変化」があったけれど、一番フォーカスを当てられているのが「靴」なのが良い。「足元」に変化があると「二人の道のりが違う」とか「歩幅が違う」などイメージが湧きやすいよね。そういうところ上手いと思う。
・時間の経過を若者の関心が強い時事に絡めていた(ゴールデンカムイ、ACC、Switchのゼル伝、スマップ解散など)ため、ちゃんと自分たちと同じ時間軸を過ごしてきたのだと思わせる。明らかに若者層を狙っている映画だから、こういうところも抜かりない。
・序盤にモノローグが多い。全編この調子で続くなら少し退屈かなと思っていたのだが、今考えると「過去の思い出」の表現として、モノローグを多用していたのだと思う。時間が経過するにつれモノローグが少なくなり、どんどん登場人物の心情や状況に没入できるようになっていった。
・別れを切り出すタイミングが同じ。元々運命としか言いようがないぐらい気が合う二人。天竺鼠が好きなのも、行きたくないカラオケに行ってしまうのも、押井守を神と認識しているのも同じ。二人は気づいていないけれど、告白をしようとするタイミングも同じだった。別れを切り出すタイミングや別れ際の振舞いかたが全く同じで、関係性が悪くなっても相変わらず運命的に相性が良い。「こんなにいいコンビなのに…!」と悶えた。
・エンディングは、麦が当初描いていた絵と同じタッチで2人の思い出が描かれていた。これが麦の描いた絵だとすると、付き合い立ての頃のシーンの絵は多く、麦が就職した後のシーンはなくなるか少なくなるはずなのだ。それは絶対そうであってほしいし、そうでなきゃいけないと思ってエンディングを見ていたら、まさにその通りだった。サイコー!
この恋はまさに「花束」だった
「花束みたいな恋」は「昔の華やかな思い出」を指していると思う。二人で焼きそばパンがおいしいパン屋さんに行った時、絹は花束を持っていた。そのパン屋が数年後に潰れたことを絹が悲しみ、麦は意に介さないという決裂のシーンがあることからも、パン屋とその時持っていた花束は「過去の華やかな思い出」の象徴なのだと思う。
エンディングの最後には、黒単色で描かれている花束の絵に色が付いて終わった。「花束みたいな恋」は「色のついた思い出」なんだなとしみじみ感じた。
麦が花束の中にあるマーガレットの名前を知りたがった時、絹はその名前を教えてあげなかった。女の子が花の名前を教えると男はその花をみるたび、一生その子を思い出してしまうからだそうだ。
映画の一番最後、数年ぶりにばったり出会った麦と絹はお互い新しい恋人ができていて、直接言葉は交わさないけれど清々しく違う道を行く。二人は最後の最後に、それぞれの思い出の花に固執することなく、花束があったことだけを懐かしむ。恋の花束の中にマーガレットが入っていても、麦がそれに執着する事はない。もちろん絹もそうだ。
昔華やかに咲いていた花束は枯れて色が無くなってしまったが、それにもう一度色を付けようとはしなくていい。「昔は美しかった」ことだけ知っていればいいのだ。
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