親離れ
私の母は過干渉であった。教育熱心がゆえだろう。おかげで一般的な教養と学歴は得ることができたが、それ以上に、母親の強い依存と、反動による突き放しの連続に揉まれ、大きな精神的負担を感じていた。
大学に進学するときに親元を離れて一人暮らしを始めた。一人暮らしをしても実家から近いとつながりが出来てしまいそうだから、なるべく地元から遠い大学に進学した。おかげで、自分から実家に帰省した時以外は母親と関わらなくてよかった。一人暮らしを始めて3年半経ったが、帰省もほとんどしていない。
一緒に暮らしているときは当然だが、一人暮らしを始めてから1・2年は、時々母親の言動を思い出して怒りがこみ上げた。あの時ああ言ってやれば良かった、とか次こういう場面になったらこう言ってやるぞ、と想像して溜飲を下げていた。
しかし、色々なところで「親と和解する」ことの重要性を説かれる。それも若者の大きな課題だという。和解する、というと、つまり仲良くするということだろう。それが自分にできるようになるまではもっと長い時間がかかりそうだ、と思っていた。
今日の夜自宅に帰ると、実家から荷物が届いていた。中には母親の手紙と、俺が好きだった蜜柑の箱。俺が蜜柑を好きだったことを覚えていて、しばらく会っていないから心配の意も込めて荷物を送ってきてくれたのである。
今までも何回か荷物を送ってきてくれることはあったが、その時には何の感情も湧かなかった。ただ物資が送られてきたという事実があるだけだった。しかし今日送られてきた手紙と蜜柑の箱を見て、初めて、ああ母は俺に関心を持ってくれていて、心配をしてくれていて、愛をもってくれているんだなと感じた。
そして同時に、これが親離れか、と思った。
「好きの反対は無関心」とよく言われる。嫌いという感情は相手に関心を持っているという点で好きと同類であるということだ。関心の結果どんな感情がアウトプットされるかよりも、まず相手に関心を持っているか持っていないかという方が大きな差なのだということだろう。
この理屈で行くと、「嫌いの反対も無関心」と言えよう。
俺は、母親をひどく嫌っていた。それは母親に対して強い関心を抱いていた(抱かざるを得なかった)ことを表している。
しかし時間が経って、色々な心の整理がついて、私は母親に対する関心を軽減させることができた。これこそが親離れではないか?
関心を抱いて相手を好きになれるならいい。しかし好きになれないならば、悪い感情を抱かない程度に無関心になるしかないのである。
しかし、嫌いな相手への関心を無くすのは、もしかしたら好きな相手よりも難しいかもしれない。特に親子の関係だと、現状の不幸を親のせいにしてしまうことがある。そうなれば、いつまでたっても嫌いという感情によって親への関心を減らせない。
そんな中で、嫌いという感情がわかない程度まで母への関心を減らし、そして感謝すらできるような心理状況になっていることに、成長を感じた。
物理的な親離れは済んでいるが、今日初めて心理的な親離れにも、踏み込むことができたと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?