ある日のこと。 学校から帰ると 母の姿はなく、祖母が待っていた。 「今日からおばあちゃんたちと暮らすんだよ」 何が何だか分からず、手を引かれて祖父母と叔父夫婦の営む飲食店の上の住処へ。 この日から 母は帰ってこなくなった。 事情もわからないけれど 聞いてはいけない気がして 当たり前のように 従兄弟たちとテレビを見て、食事をして 祖母の隣で眠ることになった。 祖父は この頃外へ勤めに出ていて バスで帰ってくる。 (おじいちゃんなら お母さんはどうしたのか教えてくれる
自由奔放な母と 振り回される両親、つまりわたしの祖父母。 母が身勝手に産んだ小さな女の子は 記憶の中でも 賢い子どもだった。 父親のないシングルマザーなんていう言葉もない頃、 「片親」のわたしは 近所で有名だった。 「可哀想な子」の割に 母は わたしに 「可愛いお洋服」を着せることに喜びを感じ 「父親」から わたしを着飾るための金銭を無心していた。 そのお金で オーダーのワンピースや 数少ないブランドものの子供服を着せ 目新しいおもちゃを買い与えた。 嘘つきなわたしは
一番古い記憶。 シングルマザーの道を選び 祖父母と兄夫婦の営む飲食店で働き始めた母。 そこからほど近い小さなアパートにちいさなわたしと暮らしていた。 ある日の夜、わたしを連れてでかける。 ダンスホール(?)というのが正しいかわからないけれど。そんなところへ。 大人たちがお酒を飲む中、ホールの真ん中で小さな女の子は 得意げにツィストを踊ってみせる。 たくさんの拍手や笑い声が嬉しくて。 母が撮った写真のわたしは楽しそう。 そして翌朝。 母はなかなか起きない。 お腹が空
忘れないように。 覚えていることを 少しずつここへ残しておきたい。 いい歳になり、これまでのことを 恨みもなく、受け入れられるようになった。 きっとわたしにとって 必要なことばかりだったと やっと振り返ることが怖くなくなった。 産まれるべくして 母のお腹に命を宿し 何事もなくスクスクと育った。 物心つくまでのわたしは きっと祖父母からも母からも 「愛しい」存在だったはず。 赤ちゃんてそうだから。 小さくて柔らかくて 無防備で。 ちゃんと母乳だか、ミルク高を与えら
わたしのことを書いてみる 1960.9.23 多分午前中。 おそらく 名古屋の地で。 古ぼけた桐の小箱に入った臍の緒が 母とわたしを繋いでいた証。その時、母は1人だったのか父であろう人がそばにいたのか、それとも祖父母がいてくれたのか、今となってはもうわからない。