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わたしのこと。

忘れないように。
覚えていることを 
少しずつここへ残しておきたい。

いい歳になり、これまでのことを
恨みもなく、受け入れられるようになった。

きっとわたしにとって
必要なことばかりだったと
やっと振り返ることが怖くなくなった。

産まれるべくして
母のお腹に命を宿し
何事もなくスクスクと育った。

物心つくまでのわたしは
きっと祖父母からも母からも
「愛しい」存在だったはず。
赤ちゃんてそうだから。

小さくて柔らかくて
無防備で。

ちゃんと母乳だか、ミルク高を与えられ 予防接種もしてもらい
大きな病もせず 
3歳のお誕生日くらいまで
守られていたはずだ。

でもその頃からわたしは
徐々に 自我を持ち
意思表示をし
反抗もし出す。

さて、やっかいだ。

お腹が空いた
トイレに行きたい
もう眠い。

美味しいものや好き嫌いが始まり
ただ与えればいい日々は終わる。

シングルマザーの道を選んだ母。
生きるためには仕事もしなくちゃならない。
収入がなきゃ 食べられないから。

戦争を体験し
「疎開」して 寂しい思いをした母に
祖父母はとても 甘かったに違いない。
その上 母の下にいた妹を
今なら助かるはずの病で亡くした祖父母。
上の兄たちとは違い 末っ子となった母を 溺愛していたのは予想がつく.

「普通」に嫁ぎ、家庭を持ち
戦争もない日々で 幸せになってほしくて 母を守ったというのに。

昭和35年。
母は26歳。
家庭のある男との間にわたしを授かる.
結婚は出来ない。

祖母は反対しただろう。
祖父は男に怒っただろう。

でも。
母は 私を産み
父に 「認知」だけ求めて
祖父母と 母の上の兄が始めた 飲食店で働いた。

幼かったわたしは
従兄弟たちと 兄弟のように育つことになる。

祖父母から見ると
いとこの兄弟より
わたしは 父親のいない不憫な子。
甘やかしていたつけが周り
わたしを何とか 育てなければと
まだ50代だったふたりは
そこにいる2人の孫より
わたしに手をかけた。

叔母は 疎ましかったに違いない。

母のことも わたしのことも。

それでもまだ 祖父母は元気だから
嫁である叔母は 我慢するしかなくて。

そんな暮らしがあったであろう
わたしの幼い日々。

薄らと 記憶のあることを
ここから 綴っていきたいと思う。

先ずは 誕生から 5歳くらいまで。

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