幸せの責任は自分にしか取れない

親の仲裁をさせられることほど、嫌なことはない。
そう、小さい頃から私は〜兄弟を入れたら「私達」ということになるけど〜親の仲裁をさせられてきた。

振り返ってみると幼少期、両親はなぜあんなに喧嘩ばかりしていたのだろう?もしくは、あまりにも喧嘩の印象が強烈だったので、記憶がそこに偏っているのかもしれない。

けれども、とにかくよく両親は、喧嘩をしていた。

酔って大声を上げる父親。
泣いて子供達のところに避難してくる母親。
助けてあげなくちゃと必死になる子供達。

そんな環境で育ったから、私にとって家庭というものは、素直に安心できるものではなかった。

父が酔っていないと安心したし、酔っていても笑って上機嫌だと嬉しくなった。
一転、酔って怒り出せば恐怖しかない。
言い合う父母と、母の泣き声。

怖かった。
本当に怖かった。

でも今思う。

「あなた達はどうしてそんなに喧嘩ばかりしていたの?」

父はどうしてそんなにお酒を飲んでいたのか?
母はどうして泣いていたのか?怒らせるような何か言ったのか?

そしてそんな責任を、子供達に取らせるべきでは絶対になかった。

何なんだあんた達。

そういうことは。

子供のいないところで勝手にやってくれ。

私達には関係ない。

巻き込むな。

老人と呼ばれる歳になってさすがにもう言い争うような喧嘩はない両親。

だけど他者を巻き込むことで生き長らえてきた母は、今も他者を巻き込んでいる。自分の幸せは人からもたらされるものと思っているから、無意識に自分の幸せの責任を他者に求めてしまうのだ。

もちろん家族としての関係から生まれる喜び、助け合い、協調…そういった関係性を否定するものではない。

けれども、たとえ家族といえど、人は皆ひとりひとり、独立した個人。

その喜びの責任、幸福の責任、そして不幸の責任は、他者によってもたらされるものではなく、あなた自身で気づいて、築いていくしかない。

自分の人生の責任は、自分しか取れる人はいないのだ。

でも、どこかで、まだそれに手を貸さなくてはならないような、親の幸福の責任を取らなくてはならないような…。

今でも子供達は無意識に、そんな思いに苛まれる。

でももうそこから、きっぱりと離れていい。

何か自分が助けなきゃないような気持ちになった時には、依存の精神が顔を出している。

人に依存されることでどこか、自分の存在意義を確立している、そんな不毛なことは金輪際もうきっぱり、絶っていい。

「幸せの責任は自分にしか取れない」

シビアにそれを、やるべき時だ。

自分のためにも、相手のためにも。

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