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【掌編小説】ショート・フォール・フィルムscene#1[ひとつぶ]

すりガラスの窓ににじむ、オレンジの灯り。その向こうには、少し色褪せたカフェカーテンがさがっている。換気扇がぶんぶんとまわり、お米の炊けるにおいが微かにそこからもれている。

窓の内側で、お母さんは台所に立っている。洗いざらしのエプロンのひもをキュッと締めなおしながら、今日のお月さま大きかったねえ、と言った。

そうだねえ、と葉月ちゃんは答えた。ダイニングテーブルにひろげた宿題プリントの上に頬杖をついたまま、ぼうっと台所を眺める。カウンターのうえに、玉ねぎとおいもがごろんごろんと寝そべっている。熱いお湯の入ったポットや、つい先週お母さんが煮たりんごのジャムのびん、さかさに置いたワイングラス、赤い色のついたコルク、にんにくの皮。ちいさなやかんを文鎮がわりに、郵便局からの不在票がぺらりと一枚。

よい具合にごちゃついた台所の風景が、とても好きだ、と葉月ちゃんは思う。あたたかいお風呂にちゃぷんとつかっている時みたいに、心の芯がほわっとほどける。頭の上にある、オレンジ色の電球は、この家をそっと守ろうとするかのように、ふくよかに光る。

「サキちゃん、もう一緒に帰れないんだって」
「ええ、そうなの」
シュッ、シュッ、れんこんの皮をむく小気味良い音の向こうから、お母さんの返事が聞こえてくる。皮むきの音につられて、葉月ちゃんのくちびるは軽くなる。

「おじゅけん、するんだって。これからは塾にかようの」
「すごいねえ、今からたくさんお勉強するんだ」
皮をむくのはすぐに終わって、今度はれんこんを四角く切る音、しゅこ、しゅこ。
「やっぱりすごいよね」
言いながら、自分でも気づかないくらい、かすかなため息が転がり出て、葉月ちゃんの肘の下にある、プリントにゆううつなしみをつくる。

お母さんははたと手を止めて、ちいさな葉月ちゃんをちらりと見る。プリントの上におちたため息のあたりを、やさしく見つめる。オレンジの灯りのせいで、少しだけ黄ばんで見える紙の、ちょっとはじっこのほうには、やわらかい鉛筆の線で、きらきらおどるたくさんのお菓子の絵が描いてあった。

「なあに、これ」
エプロンで濡れた手をふきながら、お母さんは葉月ちゃんに近寄った。葉月ちゃんは頬杖をぱっとやめて顔を上げた。三つ編みがぷるんと揺れ、くちもとにいたずらっ子のえくぼができた。
「えへへ。お茶会のこと考えてたら、しぜんに描いちゃった。森のこびとのお茶会」

お母さんは、落書きをやめなさいと、頭ごなしに怒ったりはしない。葉月ちゃんが賢くてよい子だと分かっているからだ。本当のことを言えば、想像のはねをのばしてのびのびと描く葉月ちゃんの絵が、好きなことをうれしそうに話す葉月ちゃんの顔が、とてもとても愛おしいので、どうにも怒る気持ちになれないのだった。そういう時、お母さんの眉はすこし下がり、目と口は三日月のようになり、なんだか自分でもよくわからない表情になってしまう。

「わかった、これ、タルトでしょう」
「うん!お母さんが前に作ってくれたりんごのタルト。これはココアのカップケーキ。こっちはお花のもようのティーカップでね」
うちにお客さんが来たときに出してあげる、よそゆきのティーカップにそっくりのその絵を見て、お母さんはふっと思う。(わたしのつくるものや選ぶものが、この子の世界のはじまりを彩っていくのだな。)
「じゃ、次はたし算をしなきゃね」
けろりとした顔でそう言って、すっかり先の丸くなった鉛筆を握り直す葉月ちゃんを、お母さんはくすくす笑いで見守る。

ピ、ピ、ピーッ、ご飯が炊けた音。ふたを開けると、むせかえるような甘い湯気が顔を包む。ほこほこの黄色い栗が、真っ白いご飯の上でかがやいている。葉月ちゃんは、カランと鉛筆を放りだして、ばたばた炊飯器にかけよって来る。
「くりごはんー!」
お母さんの腰に手を回して、炊飯器をのぞきこんだ。

ねえ、あなたはどんな道を歩いていくの?どんな世界をつくっていくのかな。すべてはあなたの望みどおりに、ただ今のように、ずっときらきらしたものを抱えていけますように——ご飯にちりばめた、誰にも負けない娘への愛をひとつぶつまんで、お母さんは、ぽわんと開いた葉月ちゃんのかわいい口にそっとゆびをあてた。

貴重な時間を使ってここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。