【連作短編】とおくでほえる/#3べつのせかい
点と点を結ぶ線を、自由自在に描いて繋ぎ止めておければいいのに。そうすれば、不自由な言葉なんていらないのに。
サチエさんが帰ってしまうと、まるで店の中が空っぽになったような気がした。さっきまで彼女が座っていたカウンターの端っこを見つめる。何かあったのか、上の空で固まっていた彼女は、それでもゆっくりとホットサンドに手を伸ばして綺麗に完食してくれた。そっと残された、からのカップとお皿。それらがまるで静物画みたいに見える。サチエさんは本当に、そこにいたのだろうか。
手作りのカウンターに両手をついて、お客のいないカフェを見渡した。ここは僕の砦。お金がなくて、ぼろいビルの半分地下みたいな狭い部屋しか借りられなかった。それでも妥協はせず、時間をかけて砦をつくった。カウンターや椅子は自作だし、お皿や細かいインテリアに至るまで、全て緻密に選び抜いた。そうして、僕は僕の世界に色をつけた。
全ての人は世界を持っている、と僕は思う。誰とも交えることのできない、その人だけの世界を空気のように引き連れて生きている。お客がこの店のドアを開けて入ってくる時、その人が僕の世界に足を踏み入れる瞬間が見えるのだ。まるで透明な膜をくぐり抜けるようにして。音もなく、夢みたいにぼんやりと光を飲み込みながら。
カウンターの上に置きっぱなしだったカップとお皿をようやくシンクに下げ、溜まった調理器具とともに手早く洗って片付けた。フライパンに中途半端に余っていた野菜のソテーを、トーストしていないパンの切れ端に挟む。適当にマスタードをしぼってかぶりつく。今日はもう店を閉めよう。いくら待っても、気だるい午後に沈み込んだ僕の砦を見つけて入ってこようとする人なんて、もう誰もいないような気がした。それに今日は水曜日だから。時計の針は、3時半をさしている。
キッチンとカウンターをピカピカに磨き上げてから僕は店を出た。扉に鍵をかけ、階段を上がり、少し塗装のはげた自転車にまたがってゆっくりと漕ぐ。ビルとビルの間の迷路みたいな路地を曲がっては進み、息を潜めるようにして通り抜けると、突然目の前が開けてのどかな川沿いの道に出る。深呼吸する。
橋のたもとに植えられた桜は、ほとんど満開だった。いつの間にか春がすっかり空気を染めてしまっていたことに驚いてーーいやでも、とっくに気付いていたような気もするな、と思い直す。
ーーそう、僕はいつだって気付かないふりをする。ほんとうはわかっているくせに。春の訪れも、それから、サチエさんが僕を見ていることにも。
彼女はいつも僕の瞳の真ん中を見ている。まるで射るように、真っ直ぐに。その度に、僕は手を伸ばしそうになる。彼女の世界に触れられるだろうかと。本当にそこにいるのだろうかと。本当に、彼女は僕を見ているのだろうかと。
昼下がりの太陽が、のろのろ自転車を漕ぐ僕をじっとり照らす。陽炎のように揺れる道の先に水色のランドセルの背中を見つけて、僕はスピードを上げた。今日もちゃんと会えた。少し離れたところから、僕は弾んだ息のままその子を呼んだ。
「杏ちゃん、おかえりーっ」
「あ、おにーちゃん!」
フード付きパーカーにデニムを履いた小さな女の子は、ふわりと振り返ると軽やかな声で僕を呼び返した。
「もう学校始まったんだ」
「うん、昨日から!杏もう三年生だよ」
無邪気に笑って、僕に聞く。
「今日もお客さんこなかったの?」
「わ、杏ちゃんひどいなあ。それなりに人気店なんだけど」
「うそー。だったらこんなに早く帰れないじゃん」
「うわあ信じてくれないんだ、泣くぞ。杏ちゃんとの約束、ちゃんと守ってるだろ」
自転車を押しながら並んで歩く。杏ちゃんは僕を見上げると、恥ずかしそうにクシャッと笑った。小さな鼻にシワを寄せているのが可愛らしくて、僕は杏ちゃんのサラサラのおかっぱをわしわし撫でた。汗ばんだ地肌が手のひらに触れた。
杏ちゃんに初めて会ったのは二ヶ月ほど前のことだ。材料を切らしてしまってお店を早く切り上げたその日も、僕は自転車でこの道を通って帰っていた。ふと川沿いの柵の向こうで水色の物体がうごめいているのが目に入った。慌てて自転車を止めて近づくと、ランドセルに身を隠すようにして泣いている女の子と目が合った。それが杏ちゃんだった。
どうしたの?と聞くと、さくらがいない、と消え入りそうな声で杏ちゃんは答えた。桜?サクラって誰?杏ちゃんはまた、ねこ、と答えた。学校から帰って、玄関を開けたら、サクラが出て行っちゃった。追いかけたけど、見失っちゃった。蚊の鳴くような声で杏ちゃんは説明し、それから大きくしゃくり上げた。
まだ霜が降りるほど寒い日だった。僕はとにかくその子をなだめ、持っていたカイロを握らせて励ました。お兄ちゃんが一緒に探してあげるから、もう泣いちゃだめだよ。杏ちゃんはそれを聞くと両手でゴシゴシと目をこすり、僕を見上げ、言ったのだった。ありがと、おにいちゃん。
お兄ちゃん。すれ違う人たちから、僕達はきっとほんとうの兄妹に見えているだろう。小さなつむじを見下ろす。
「サクラが見つかるまで、杏のお兄ちゃんになって」
数日後、この道で再会した時、杏ちゃんはそう言った。この小さな女の子は、一体どんな気持ちでそんな言葉をつむいだのだろう。名前も知らない他人の僕に、一体何を求めてそんなことを言ったのだろう。杏ちゃんの世界のたったひとかけらを、僕は見ているに過ぎない。
「今日はどこを探そうか」
声をかけると、杏ちゃんは前を向いたまま口ごもった。歩くペースはどんどん遅くなり、自転車の車輪が回るカラカラという気怠げな音が僕らの間に線を引く。
「うーん。今日は、やめとく」
「そっか。たまにはお休みしようか」
「杏ね、ねっころがりたい。草んとこ」
杏ちゃんはいたずらっ子みたいな目で僕を見ると、川の方へ降りる階段の脇の傾斜を指さした。そこには青青した芝生が広がり、所々たんぽぽが顔を出し始めていた。
「え、僕もやるの?」
「そうだよ、しばふってきもちいいんだよ。杏ね、たまにやるの、このへんでね」
杏ちゃんは僕の返事を待たずに駆け出した。服汚れてお母さんに怒られない?と聞きそうになったけれど、やめた。今そんなことを聞くのは何か違う気がして。
二人並んで芝生に寝そべった。春の空は、曖昧だ。青くも白くもなくて、煙みたいなモヤの奥に太陽が見え隠れする。
「杏おもったんだよね。サクラはね、もう見つからないかもしれないって」
杏ちゃんは突然そう言った。僕は驚いた。何か言おうと急いで言葉を探したけれど、ちょうどいいものが見つからなくて結局口を閉じてしまう。草に触れた首筋が痒い。
「サクラはたぶん、べつのせかいに行っちゃったんだよ。三月うさぎみたいに、あなにおっこちて、それで……」
僕は首を曲げて、横で仰向けになる杏ちゃんの顔を見た。つるんとむいた葡萄のように潤んだ目が、つかみどころのない空と向かい合って揺れていた。
「そう、なのかな」
こぼれ出た声は情けなくなるくらいに頼りない。べつのせかい、か。いつか杏ちゃんも、行ってしまうのだろうか。別の世界に。
繋ぎ止めておければいいのに。脳裏に真っ直ぐな目をした誰かがよぎった。点と点を結ぶ線を、自由自在に描ければいいのに。そうしたら、不自由な言葉なんかもういらないのに。
少しカサついて皮のめくれた杏ちゃんの唇が、何か言いたげにふるふると震える。けれどそれはまた開かれることがないまま、固く結ばれてしまう。大丈夫、サクラはきっと帰ってくるよ。何の根拠もない言葉は心の中だけで呟く。希望のように。僕自身ををなだめすかす、形のない期待のように。
なんか、ヘンだな。隣にいるはずなのに、手を伸ばしても触れられないんだ。だから僕ら、近くにいるのに遠吠えばかりして、おかしいよな。ふくらんだ重力を受け止める仰向けの胸が苦しい。やわい雲の向こうに、落とし穴みたいな丸い太陽がこうこうと光っている。
貴重な時間を使ってここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。