【連作短編】とおくでほえる/#6 呪いのおわりと春の外側
それは一瞬のこと。繋げようとした線をさえぎったのは、自分だった。未熟な自分を空中に放り投げて生きてきた十年が、俺の足を引っ張ったんだ。
とっくに忘れたと思っていた。あの時の歪んだ感情も、その後の後悔も。 全て乗り越えて次のステージへ、そして新たな出会いを重ねているつもりになっていたのに。一瞬で、たった一瞬の眼差しで、あんなにも鮮明に引き戻されるなんて思わなかった。だってあまりにも眩しかったから。息を呑むほど強くてまっすぐだったから。弱いと決めつけていたあの子の足取りは。
……なんて、言い訳だよな。ずっとつきまとっていたはずの後悔を、見ないふりしてきた罰だよな。人がまばらになった道の上で息をする。すっかり冷めたコーヒーとカフェオレの重みが、両腕に伝わる。
約束のベンチに、花ちゃんはもういなかった。
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記憶は死なない。
儚いようでいて本当はしぶとくて、忘れていた情景や感覚は些細なトリガーでいとも簡単に呼び覚まされる。
十年前のことだ。俺が家を出た、その頃のこと。
今となっては、東京じゃなくても良かったのかもな、と思ったりもする。都会ならどこでも良かったような気もするし、そもそも美容師じゃなくても、デザイナーでも建築士でも別に良かったのかもしれない。だけど高校生の時の自分にはそういう柔軟な選択肢なんて一つも考えられなかった。とにかく上京して専門学校に通って美容師になる、とかって息巻いて、まあつまり、なんとかして反発したかったんだよな。モテたかった?まあ、正直、それもあったかもな。
決めつけてくる人たちが不快だった。型に嵌めたがる閉塞的な地元の空気が息苦しくて仕方なかった。普通、無難、人並み、だから安心。普通って何だよ、このちっさな街一つが世界の全てだとでも思ってるのかよ?そんな、思い出したら恥ずかしくて鳥肌が立つような青いこと考えてた。当たり前のように安全なレールを敷いてくる大人たちに、どうしても従いたくなかった。同じにされたくなくて、とりあえず向こう見ずでもいいから飛び出してやりたくて、それで強引に家を出た。
地元の幼なじみたちはだいたい俺のことを羨ましがった。上京する奴くらい他にもたくさんいたけれど、多分、あからさまに反発していた俺がかっこよく見えたんだろうな。勇気あるな、なんて褒められてるわけでもないのに、心のどっかでどっぷり自惚れていた。だからあの子が気に食わなかった。多分、あの子だけだったから。俺を羨望の目で見なかったのは。
その日、引っ越しの前日、早苗はペラペラの白い封筒一枚持って、俺の家にやってきた。思い出すなあ、背の小さい早苗が着ていた中学校指定のださいジャージ、そのポケットから不恰好にはみ出ていた、味気ないまっさらな封筒の質感。俺より四つ下の早苗は保育園の頃からの付き合いで、家もすぐ近くだったから何かと一緒にいた。早苗が小学校に上がったとき、母親から、早苗ちゃん家はお父さんがいないから優しくしてあげて、と言われたのを覚えてる。正直その言葉の意味はよくわからなかった。どのみち俺は早苗の面倒を見るのが好きだったし、それに、早苗は俺の目には、特別に守ってあげなければいけない「弱い子」には全然見えていなかったから。
チャイムを一度鳴らしただけで勝手に家に上がり込んできた早苗は、いつもと同じ表情をしていた。肩まで伸ばした髪に覆われたあどけない顔。それなのに、いつの間にか早苗の周りには、どこか冷めた空気が漂っている。祝うでもなく、羨むでもなく、ただ目の前を眺めるような眼差し。それが気に食わなくて、俺はわざと聞いた。
「お、なに、手紙とか書いてきてんの」
早苗はナニソレ、と軽く笑いながら封筒を手に取った。
「健ちゃん、書いて欲しいの?」
「ちげーって」
「知ってる、はい、現金だよ」
そう言って封筒をぽいっとテーブルの上に放る。およそプレゼントを渡しているとは思えない仕草。
「いやなんか他に呼び方ないのかよ、お祝い金とか言おうよせめて」
「いやだって、現金だし」
「え、てか待って、早苗から?」
「な訳ないじゃん。親だよ。おじさんとおばさんの手前お祝いしにくいから、せめて交通費にでもしてってさ」
確かにそうだった。半ば強引に家を出ていく俺と両親との関係は正直言って良好なわけがなく、そのせいで家族ぐるみで付き合っていたご近所には気を使わせていた。そっと中身を確認すると、諭吉が一枚、何にも面白くないって顔で収まっていた。俺は無意識に唇を噛んだ。好きでもない他人の子のがむしゃらな一歩に、一番高い紙っぺらを無表情で手放せる、それが大人、立派な大人、誰にかわからないけれど、腹が立つ。
「パクらないで俺に渡しにきたの偉いな」
「そんなことするわけないじゃん。お母さんの気持ちも、ちょっとは考えてよね」
「わかってるよ。おばさんにありがとうって言っといて」
「それくらい自分で言いに行ったらいいのに。健ちゃんさ、トウキョウに行けるの当たり前だと思ってるとこあるよね」
ふ、と息が漏れた。ほんの少しだけ、体温が上がるのが分かった。
「思ってねえよ。早苗こそ知らないだろ、俺がそのためにどんだけ努力したか」
「知らないよ。関係ないもん。だけど頑張ったって、叶えられない人もいるって、健ちゃん考えたこともないでしょ」
変に大人びた顔でそう言うことを言うから、俺はムキになった。なって、しまった。
「なに、それ、言い訳?」
自惚れていた。勘違いしていた。だから決定的な失敗を、してしまった。
「早苗だって夢があるなら頑張ればいいだろ。自分は覚悟できないからって、俺に八つ当たりすんなって」
早苗は黙っていた。じっと、黙ったまま、俺のことを、見ていた。その目の中には何が浮かんでいたんだろう?時を戻せないから、もう一生見ることはできない。どうしてちゃんと見ようとしなかったんだろう、怒りだろうか、悲しみだろうか、それとも、何だったのだろうか。
「健ちゃん、私やっぱ、手紙書いてあげる」
数秒してから早苗はそう言った。それからおもむろに、白い封筒に手を伸ばすと、中身の諭吉を抜き取る。何を考えているのだろうと慌てる俺を尻目に、早苗はお札は投げ捨て、代わりに手にした封筒をビリビリと破き始めた。
「ペン、貸して」
その辺に転がっていたボールペンをおずおずと差し出すと、一枚の紙になった元封筒に、早苗は何か書きつけた。筆圧が無駄に強くて、ペン先が潰れるんじゃないかと心配した。書き終わると、早苗はそれを小さく畳む。小さく小さく、分厚くなってしまうほどコンパクトに畳むと、唖然として座っている俺の手に乱暴に握らせ、席を立ち、言い放った。
「憧れてたのがバカみたい。私、健ちゃんのこと、もう忘れるね」
そして、早苗は、俺の目の前から消えた。俺はその言葉を頭の中でぐるぐるさせたまま、じっと動けずにいた。ずっと見てきたのに、どうしてその手を掴むことさえできなかったんだろう……なんて、決まってるよな。俺は早苗のことを、何一つ見ちゃいなかったんだ。
それ以降、早苗には一度も会っていない。早苗は約束通り、俺のことを忘れてしまったのかもしれない。
✳︎
風が強くなってきた。トレンチコートの隙間から、冬の残り風みたいな冷たい空気が忍び込み、体を芯まで冷やしていく。ふたつのコーヒーカップを握りしめ、ベンチに座り込んで背中を丸めた男を、周りの人はどんなふうに見ているんだろう?とか考えてみる。……まあ、どう見ても失恋だよな。
失恋、か。
これは失恋なのだろうか。いやそもそも、恋、だったんだろうか。悩んでみてもピッタリの表現は見つからない。途方に暮れながら、俺は右手に持ったカップを口元に寄せて一口啜る。冷めたコーヒーはひどく苦い。なんとなく、反対側の手に持ったカフェオレには、口をつけないでおきたいと思う自分がいる。
花ちゃんには、このカフェオレを手渡すつもりだった。ミルク多めで、砂糖もちゃんと入ってる、甘いカフェオレ。苦しそうに固まった花ちゃんの心が、少しでもほぐれたらいい。ゆっくりでもいいから、大事に抱えた重い荷物を見せられるようになったらいい。そうやって思うことは、恋や愛と呼ぶにはあまりに単純すぎるような気がする。
よくよく考えたら、二人でカフェやレストランに行ったのはまだ二回だけだ。二回とも、花ちゃんは俺と同じブラックコーヒーを頼んだ。なんとなく背伸びしているような気がしたけれど、無理しなくていいよ、とは言い出せなかった。苦いコーヒーの入ったマグカップを包む小さな両手や、転んでしまいそうで不安になるヒールの足元は、見ているこっちがヒリヒリしてくるほどの必死さで張り詰めていたから。それから、そうさせているのはもしかしたら、俺自身なんじゃないかって、不安で仕方なくなったから。
人通りの多いあの街で、初めて見つけた花ちゃんは、もっと強く光って見えたはずだったんだ。よく覚えている。両肩が開いた白いニットに包まれた上半身はピンと伸びて前を向き、すらりと伸びた細い足が、初めてランウェイを歩くモデルみたいに一歩一歩地面を踏み締める。そして何より、目、だった。確かに何かに恐れているのに、その奥には強い強い、何者かを跳ね返すような光があった。ただその長くて黒い髪だけが、彼女にありったけの重力をかけて苦しめているように見えた。
自らの意思でその重しを手放した花ちゃんは、それと引き換えに一体何を抱えるようになったのだろう。知ろうとしても、いいだろうか。そんな資格は俺にあるだろうか。彼女の姿が頭から離れないのは、どうしてだろう。
ーー多分、そうだ。
似ている気がするんだ。あの狭い世界を飛び出してやりたくて仕方なかった、未熟で無知でやたらと光だけはギラギラ放っていた頃の俺。誰かに括られるのが本当は怖くて、それを必死で隠してたあの時の俺の目。
初めて花ちゃんの方から誘いのメッセージが届いた時、嬉しさの裏によぎるものがあった。そこに漂う微かな緊張や覚悟みたいなものを、見逃してはいけないような気がした。今日会ったら言うつもりだったんだ、君のことを教えて欲しいって。消えないように、人混みに溶け込まないように、手を取っておく資格が俺にあるかなって。
だけど。そうやって繋げようとした線は、届かなかった。
さえぎったのは自分だった。未熟だった自分を空中に放り投げて生きてきた十年が、俺の足を引っ張ったんだ。
三十分前。ベンチに座って花ちゃんを待っていた時のこと。
それは一瞬の出来事だった。改札を出てきた一人のOLに、ぼんやり人の流れを追っていた俺の目は、自然と引き寄せられた。面白みのないスーツ、低めの位置で結んだポニーテール。若干くたびれて見える革のバッグ。どこにでもいそうな地味ないでたちなのに、どうしてか目が離せなかった。同時に、胸の中心の深いところが、ズンと重く痛む。あ、と思った。脳が言葉を生成する前に予感が走った。
早苗。
その言葉が俺の中で響いた時、俺の心臓は壊れた目覚まし時計みたいに激しく鳴った。うるさいほど、鳴った。目の前を、その人は、通り過ぎた。顔が見えた。化粧をして大人になった顔立ちの中に、まだあどけないあの子の面影が、鮮やかに浮かんだ。ふと目線が揺らぎ、一瞬、それは俺の視線とあいまいに混ざり合うかのように、
ーー頭の中に情景が浮かぶ。段ボールだらけの部屋の真ん中で、思い出したように何か取り出す俺。小さく折り畳まれた白い紙を開く両手。カサカサと音が鳴る。硬い紙を全部開くと、文字がある。よく知ってる字、早苗の字で、こう書いてある。
「早苗のこと忘れたら30さいでハゲるのろい」
いや、こええよ、美容師でハゲって嫌だろ、じゃなくて、忘れるとか、そんなの無理に決まってんだろってーー
気づいたら走り出していた。その呪いはちゃんとかかっていた。一目で全てが蘇るくらい、覚えてるよ。だって忘れられるかよ、何にも分かってなかった俺が傷つけてしまった大事なあの子を、消したいくらいの後悔を、どうやって忘れるんだよ。一歩、一歩、踏みしめるように歩いていく早苗の足取りは、どこも弱くなんかない。大切な人のために夢を夢のままにした早苗は、俺よりずっと強い、その覚悟はずっと大きい。馬鹿、なんで今更気づくんだよ。
もう少しで追いつきそうだったその時、早苗は道の脇に現れたローカル線の駅に吸い込まれるように入って行ってしまった。俺が疎かにした故郷の街に、ぐんぐん歩いて帰っていくその後ろ姿は凛々しかった。地味だけれど、かっこよかった。どうして、あの子より上にいると勘違いしたんだろう。
……いや、違うな。元からわかってたんだ。静かな強さを持ったあの子への劣等感を打ち消したくて、怖いもの知らずのフリしてたんだ。ひとりぼっちの、オオカミみたいに。
しばらく立ちすくんでから、俺は我に帰った。今日会うはずの人の顔を思い浮かべた。もう見逃したりしたくない、と思った。でもその前にやる事があるとも思った。どうしてか、もうさっきみたいに全力疾走する気になれなかった。下を向いたまま歩いて、待ち合わせ場所に戻る。足元を風が吹き抜けて行った。俺は人が少なくなった通りに佇んだ。
約束のベンチに、花ちゃんはもういなかった。
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遠くで踏切の音が聞こえる。それはあちこちへ揺れる風に運ばれて不気味に歪み、耳の奥を震わせる。
近くにいるのに見えない人がいるし、すれ違うだけで伝わることもある。上滑りする言葉じゃ不安で、見えない信号をキャッチしたくて、して欲しくて。もっと深いところでわかっていたいしわかって欲しいんだ。でも、もう、言葉にしなくちゃな。
呪いを解きに行こうと思った。俺の呪いも、それから早苗が自分で自分にかけた呪いも。大事にしたい人を大事にし続けられるように。信じていいよって、花ちゃんに胸張って言えるように。そりゃやっぱり震えるんだろうけど、さ。
短く吐き出した呼気が風に流れる。冷たい空気の中に、温度を感じる。曖昧な季節はもう終わりだ。
こっから始まるのかな。始まったらいいな。すれ違い続ける街の片隅、音もなく吠える僕らの一歩が、春の外側へ突き抜けた。
貴重な時間を使ってここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。