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「丁寧な暮らし」は、武器でも敵でもなかった

 今更かもしれないけど、最近ふと考えることがあった。「丁寧な暮らし」という言葉。これをまるっきりポジティブなイメージで捉えている人って、今、どのくらいいるんだろう?

 どの辺りから流行り出したライフスタイルなのか詳しくは知らないけれど、わたしが最初に認識したのは5年か6年くらい前だったと思う。雑誌やSNSで見かける、おしゃれな物に囲まれた生活空間や、落ち着いてゆったりした時間の流れ。いいなあ、と憧れていた。いつかわたしもこう暮らしたい、と思ったりもしていた。

 何かにつけて掲げられていた#丁寧な暮らし のハッシュタグ。以前に比べるとそこまで見なくなったような気がするのだけれど、どうだろう。それよりも、ちょっとネガティブな、というか揶揄するような意味合いで使われることの方が、多かったりしないだろうか。
 Googleの検索フォームに「丁寧な暮らし」と入れたら、その後の候補に「うざい」って出てきた。その他にも、「痛い」とか「嘘」とか。それを見ただけで、心がしゅんと萎んでしまう。徐々に変えられていったイメージのせいか、誰かから「ていねいな暮らしだね」と言われると、嬉しさよりも先に違和感で胸の中を埋めてしまう自分がいる。

 この気持ちを表すなら、あれだ。あの言葉を言われたときの気持ちに似ている。高校生の時、お菓子作りが好きだった。バレンタインに限らず、気が向いたらクッキーやブラウニーを焼いてお弁当仲間に配ったりしていたのだけれど、そうすると決まって「女子力高いね〜」と言われた。あのときの気持ちだ。友達に、もちろん悪意はない。むしろ褒めようとしてくれていたのだと分かっているけれど、なぜかわたしの心の片隅はモヤモヤとしてしまうのだった。好きだから、やっている。それだけだ。レッテルが欲しいわけではなかった。

 「丁寧な暮らし」って、一体何?
 それに憧れたり夢中で追い求める人がいる一方で、批判する人も絶えないのはどうして?
 結局それって、善なの、悪なの?

 ずーっとどこかで感じ続けていた違和感が、熟す時が来た。一人暮らしを始めて、生活の主体が自分になった、というのがひとつ。もう一つは、眠っていたインスタグラムのアカウントを動かし始めたこと。自分の日常を記録したくて、ぽつぽつと投稿を始めた。たかが知れてる日常風景を、できるだけかっこよく見せようとしている自分に、時々疑問を持つ。暮らしを綺麗に切り取るインフルエンサーに影響を受け、ちょっとでも寄せようとしている自分にも。一体なんのための生活なのかしら。ていねいな暮らしは、人に見せることによって価値が生まれるとでもいうのだろうか。

 そういうことじゃないはずだ。「丁寧な暮らし」は、ステータスとして掲げるものでもなければ、追い求めて疲れたり疎んだりするものでもない、もっとシンプルなもののはずなのだ。

 モヤモヤしていたわたしに大切な気づきを与えてくれたのは、またしても小川糸さんの小説だった。題名は「ミ・ト・ン」。「ルップマイゼ共和国」(架空の国だが、ラトビア共和国がモデルとなっている)に生まれたマリカという少女の、うつくしい一生を綴った、柔らかな物語だ。

 豊かで平和だった「ルップマイゼ共和国」は、いつしか敵である「氷の帝国」の支配下に置かれ、厳しい時代へ突入する。母国語で歌うことも、民族衣装を着て踊ることも禁止されてしまう。そんな中で、人々の暮らしは続く。働き、パンをこね、慎ましやかな、そして時にはちょっぴり贅沢な食事を作って愛する人と時間を過ごす。森で水をくみ、果実をもぎ、複雑な文様の入ったミトンを地道に編むマリカの暮らしは、ていねい以外の何物でもない。それは生きるための暮らしだ。見せびらかすためでも、自己満足のためでもなく。

 とある一文を読んで、わたしはハッとした。

 庭からもぎとったりんごで作るりんごのバターケーキを食べる幸せだけは、是が非でも守らなくてはならないと、ふたりはそう考えていました。
 色鮮やかなミトンを編んだり、りんごのバターケーキを焼いたり、どんぐりコーヒーを美味しく飲むことが、横暴な振る舞いをしつづける氷の帝国に対しての、しずかな抗議行動だったのです。
小川糸「ミ・ト・ン」より

 しずかな抗議行動。
その言葉に、全ては凝縮されている。

 主人公のマリカはただ、自分と大切な人が幸せに暮らせるように、生活に愛をはりめぐらせただけ。自分たちの平和が得体の知れない大きなものに飲み込まれないように、家の中や毎日のすみずみに、守りをはりめぐらせただけ。

 つまり、きちんとご飯を作ったり、部屋を綺麗にして花を飾ることは、家族への愛と、自分たちのかけがえない日常を何者にも邪魔させはしないという、強い意思の表れなのだ。
 衣食住は、幸せの土台だ。褒められるための武器じゃない。衣食住がアイデンティティなんじゃなく、心の中にあるはずのアイデンティティを保つために、自分の暮らしを守ろうと、私たちはしたかったのだ。本当のところでは。

 昆布と鰹節から出汁を引いて、ゆったりした時の流れや味わい深い和食を楽しむのと、冷凍餃子に安い缶ビールでダラダラしながら大好きなドラマを楽しむのは、同じくらい価値のある暮らしだと思う。比べることはできない。だって主人公が違うのだから。わたしにとっての「氷の帝国」のような脅威から、わたしだけの譲れない幸せを、わたしが持つとっておきの方法で守れたら、それは十分「丁寧な暮らし」じゃない?今ではそんなふうに思える。

 誤解のないように言っておきたいのだけど、おしゃれでワクワクする日常風景をシェアするのは、もちろん素敵なことだ。わたしも自分の投稿がいい感じに可愛くまとまったら、モチベーションが上がる。よく見せようとするのが悪いわけじゃないと思う。自分の認識さえニュートラルに保つことができていればいいのだ。そうすれば、いわゆる「#丁寧な暮らし」を武器にしようとして疲れることもないし、敵に回してうとましく思うことだってないはずだから。

 キラキラして見える誰かの暮らしを覗きすぎて、必死でみっともない自分の毎日に焦りを感じたら、わたしはこうやって言い聞かせる。
「自分の人生を生きよう!」
 そう、わたしの時間はわたしだけのものだ。覗いてばかりもいられない。
 わたしが好きなことは何?心地いいのはどんな暮らし?大事なのはそこだ。誰もが、自分の幸せを守ることに力を使えますように。暮らしに正解なんて、ないのだからね。

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