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【短編小説】ことしの桜

 四月二日、金曜日。曇天。
 湿ったぬるい空気を引き連れて、電車はプラットフォームに滑り込む。重たい風がぼうっと立ち尽くす私たちの頬を叩いていく。甲高い音と共に電車は止まり、ドアが開くと人の波はゆらりとうごめいた。
 あれ?何かが脳みそに引っかかった気がして、私はきょろきょろしながら電車の乗降口に足をかけた。
「だからさあ、ほんっと疲れんの、その子の相手」
「そっか」
 つい返事がおざなりになる。人混みで見つからないけど、絶対知ってる顔だった。えーっと、誰だっけ。
「でもやっぱ新人だし。冷たくするわけにはいかないじゃん?困るよね」
 あ、あ、いた。あの人。ネイビーのジャケットに細身のパンツ。でも顔が見えない。こっち向いてくんないかな。
「もう神経減るわイライラするわ、本当嫌んなっちゃう。これがしばらく続くと思うと、うんざり……ねえ真理子聞いてる?」
 目線の先で、ネイビーのジャケットが振り向いた。あ、やっぱり。
「藤田くんだ」
「藤田?違うよ、藤咲さん!ハケンの子だよ、最近入ってきた!やっぱ聞いてなかったんだね、真理子」
 ハッとして振り向いた。隣で紗耶がものすごく不機嫌な顔をしていた。やば……ただでさえイライラしているみたいなのに、無意識のうちに火に油を注いでしまった。
「ごめん、ちょっと知り合いがいたから。えーっと藤咲さん?いい子そうに見えたけどそうでもないんだ」
 私はつい彷徨いそうになる視線をグッと制して、紗耶に問いかける。ちょっと今日は荒れそうだな、まるで天気予報みたいなワードが頭に浮かんだ。
「いい子っていうか、いい子ぶってる?なんか八方美人っていうの?すごい顔色うかがってくるわけ」
「うんうん」
「私は謙虚ですアピールが過ぎんのよ。最初はみんなそうだけどさ、なんかこうもくどくどと続けられると耐えられないよね」
「うーん、そうかあ」
「嫌じゃない?そういう、媚びるみたいな子って」
「まあ……気持ちよくはない……かなあ」
 私は紗耶の剣幕に圧されるようにそう言った。正直、私は紗耶ほど藤咲さんと接点があるわけではなかったし、本人のいないところであれこれ言うのも気が引けた。あんまり得しない話題のように思えたけれど、私が口を挟めるような空気ではなかった。こんな時、何か気の利いた一言でも出てくればいいのに、なんて思って私はこっそりため息をつく。
「真理子はポジティブっていうか、語弊を恐れずに言うなら能天気だよね。私は無理。ああいう女は嫌い」
 嫌い。紗耶の放ったその言葉が、混雑した車内にぼたりとシミを落とした、ような気がした。混ぜこぜにした絵の具みたいに濁ったその感情は、湿って重そうに沈み、足元でべちゃりと潰れる。
 そういえば私もそうだった。座った席と反対側の窓に、昔の自分がちらりと映ったような気がした。絵の具をぐちゃぐちゃにかき混ぜることから卒業したのは、一体いつだっただろう?
「うっわ。人、多くない?」
 紗耶が小声で呟いた。一つ目の駅でドアが開き、外の空気と一緒に人が流れ込んできていた。
「今日混んでるね、金曜日だし。それに何かイベントあったのかも」
「そうっぽいね。とことんついてないわ、今日」
「まあ、座っといてよかったじゃん」
 とりあえず席を譲った方がいい人はいなそうだ。でもこれで、藤田くんが見つかる可能性は減っちゃったな。少しだけがっかりした。私は人いきれの中で酸素を探し出すかのようにして呼吸した。かすかに、雨の匂いがした。
 がたん。突然電車が揺れた。やや急なブレーキで停止する。人の塊が一斉によろめいた。つり革がねじれる、ぎしぎし、という音。
 嫌な予感がした。

“お客様にお知らせいたします。只今車両の安全確認を行います。大変ご迷惑をおかけしますが、発車までしばらくお待ちください”

 たちまち車内がため息に包まれる。
「最ッ悪」
 紗耶が吐き捨てるように言った。後ろでまとめていた髪を乱暴にといて、背もたれにどさっと寄りかかる。手をかけて綺麗にしているらしい巻き髪も、淀んだ車内ではくたびれてしまっているように見えた。
「急いでた?紗耶」
「別に。銀行行こうと思ってただけ。いいよもう、今日は何もかも駄目な日みたいだから」
「そっか……早く発車するといいね」
 紗耶はそれには答えずに俯くと、スマホを取り出していじり始めた。長い前髪がぱらりと落ちて、私の目線から紗耶の表情を隠してしまう。
 ふ、と息を吐いて、私は周りを見回す。幾つもの疲れた顔が、焦点の定まらない目で、手のひらの四角い機械を眺めている。目の前のおじさんが掲げた新聞が目に入った。難しい顔をしたどこかの政治家の写真。その横にある“桜開花宣言”のちいさな文字が、今はひどく場違いなように見えた。
 もう一度、目を凝らす。
 見えないけれど、多分、近くにいるはずの人。彼はいつだって正しいものを見つけることができた。正しくて、素敵で、心にふわっ、とあかりを灯すようなものを、いつも見ていた。今でもまだ、そうだろうか。
 ああ、思い出した。私を教えてくれたのはあなただったね。昔の自分を思い出して一人赤面しながら、私は人混みの裏側にいるはずの藤田くんにテレパシーでも使えないだろうか、なんてくだらないことを思ってみる。

✳︎

 曇りの日が嫌いだった。
 ついでに言えば雨も嫌いだった。それから夏の炎天下も嫌いだったし、さわがしい蝉の鳴き声も、本当に嫌だった。
 高校生の頃の私にとって、おそらく世界の半分くらいは嫌いなものでできていた。
「嫌い嫌い、いやだいやだって、あんた人生損してるよ。そのうち眉間にシワができて後悔するからね」
 母はよく冗談めかしてそう言っては私をたしなめた。けれど、そんな母のことすら、私は時に鬱陶しく思っていた。
 高校は、家から近い普通科に通っていた。勉強自体は特別嫌いではなかったが、学校は嫌いだった。先生だの友達だの、面倒臭い行事だの、しょっちゅう気に食わないことに出くわさなくてはいけなかったから。不幸せな私は負のルーティンからどうにも抜け出せないまま、倦怠にあふれた毎日を淡々とこなしていた。自然と、私の周りには「だるい」ばかり口にするような友達が集まった。
 あれは確か、高校三年の終わり頃だったと思う。卒業を目前に控えた二月、人生最後の席替えをした時のことだ。
 卒業したら一生席替えなんてしないから、最後にやっとくか。担任の先生がそんなことを言い出した時、私は珍しく乗り気だった。席替えのことだけを言えば、私はいつも運が良かった――つまり、先生の目につかない後ろや端っこで、しかも仲のいい子たちに囲まれた席を引くことが多かった。私は油断していた。よくよく考えれば、世の中そんなに上手くいくわけがない。
 黒板に貼られた座席表を確認した私は絶句した。私の引いた番号は、みごとに教卓の目の前に割り振られていた。がっかりしながら机を動かしてみる。周りにいるのは、ほとんど話したことのない男子ばかりだった。
「サイアク。何でこのタイミングで席替えなの?」
 席替え賛成派だったはずの私は、いとも簡単に不機嫌モードに切り替わった。教室の後ろの方で楽しそうにはしゃいでいるクラスメイトたちが、何だか無性に恨めしかった。
「ウケる。今までの席替えで運使い果たしちゃったんだよ、マリ。頑張んな、あと一カ月もないんだからさ」
 望み通り窓際の端っこを引き当てたタムラが、余裕ぶっこいた調子で私に言った。タムラはその頃私がよく一緒にいた友達だった。クラスも一緒で、帰り道も一緒。家までの距離はだいたい一駅分あって、だらだら喋りながら歩くにはちょうどよかった。
「なんかムカつくわ、その顔」
「ひっど。生まれつきこういう顔ですから。っていうか励ましてるんだけど」
「はいはい、ありがとね。じゃあ席交換しよっか」
「嫌だ」
 私はタムラの綺麗なポニーテールをわしっとつかんで放り投げるように揺らした。えい、捨てちまえ。
「ひゃー」
 タムラが大げさによろけてみせる。ふわ、と甘酸っぱいシャンプーの香りが鼻をくすぐる。都会でも田舎でもない通学路に、くだらない会話と愚痴と戻らない時間を惜しげもなく撒き散らかしながら、私たちは何度となく登下校を繰り返した。
「マリの隣、誰だっけ」
「誰だっけ」
「……いや私が聞いてるんだけど。まさか名前わからないとか?」
「あー……思い出した。顔は分かるんだけど名前が」
「お前ホント無関心だなー。卒業までにクラスメイトくらいは覚えてあげなよ」
「ええ今から!?いやいや顔は分かるんだって!あのさー肌が白くて……静かそうで……あのちょっと目細い……なんか眠そうな感じの」
「あ分かった。藤田だよ、それ」
「……へえ」
 名前を聞いてもピンとこなくて曖昧に相槌を打つと、タムラはぎょっとしたように目を剥いた。
「へえ、って!何で私が分かって隣のマリが分かんないの!?っていうか藤田目ぇ細くないよ、一重だけど」
「何でそんなこと知ってんの」
 私は呆れて言った。私にしてみれば、好きでもない他人に関心を持てることの方が不思議だった。
「いい子だと思うよ。喋ったことないけど」
「ないんかい」
「なくても何となく分かるっしょ、雰囲気とかさあ。喋ってみれば?仲良くなっちゃえよ、この際」
 私はタムラの切れ長の瞳を覗き込んだ。席替えでいい席が当たったことを差し引いても、その日のタムラは前向きすぎる気がした。
「何、怖い」
「タムラさあ、藤田のこと好きなの?」
 はーあー?みるみる不機嫌な顔に戻って声をあげたタムラを見て、なぜか私は安心する。
「彼氏いるわバーカ」
「あーそうですか」
 私は拗ねたフリでそっぽを向いた。そのままその話題はなんとなく終わってしまったけれど、
「藤田、か……」
 妙にその名前が耳に残っていた。そう、多分この時が最初だった。私が藤田くん、という存在をきちんと意識したのは。
 ただし、その時の私は徹底して無関心だった。藤田くんは私にとって、あくまで「席が隣になった男子」に過ぎなかったから、すぐに気に留めなくなってしまった。まして、話しかけてみよう、なんて思いもしなかった――私が偶然、あのノートを目にするまでは。

 その日、いつものように帰宅してスクールバッグを開けた私は、妙な違和感に首をかしげた。見覚えのないノートが紛れ込んでいた。English――ああ、とすぐに合点がいった。今日返却された英単語の練習ノートか。誰かが間違って、私の机に他の人のノートを置いてしまったのだろう。私は軽い気持ちでそれをバッグから取り出すと、表紙の名前を確認した。
 藤田巧。
 それが藤田くんのことだと気づくのに、まるまる二秒かかった。下の名前、巧、っていうんだ……なんだか新鮮な気持ちになる。隣の机だし、間違うのも仕方ないかもしれない、と思った。もう使わないノートだ、明日返せばいいだろう。
 ぼんやり考えながら、私はぱらぱらとノートをめくってみた。知らない家の匂いがした。
「綺麗な字……」
 私よりも数段綺麗で、それに丁寧な字がページいっぱいに並んでいた。日本語の意味、その下に英単語、それから例文。時々星印が付いているのは、苦手な単語、ということだろうか。
 どうしてこんなに丁寧に書くのだろう。不思議になった。単語の練習なんて、覚えられればそれでいいと思う方だし、第一私は英語が嫌いだ。
 嫌い。だからやらない、いらない。それが私のやり方だった。私はもう一枚ページをめくった。
 そこにはスケッチが、あった。
 息が止まるかと思った。私は口をぽかんと開けて、そのページを食い入るように見つめた。そこには、繊細なシャープペンの線で、エイチビーの硬さを微塵も感じさせない柔らかさで、丁寧に、ごく自然に描かれた、

 私がいた。

「えええええ?なんで……私?」
 それが私だということに疑いの余地はなかった。少し垂れた目、薄いまゆ、小さな鼻に薄い唇。自分では余り気に入っていない細い顎先も、肩までで切りそろえた面白みのないストレートヘアーも、どこからどう見ても、それは紛れもなく、私、清水真理子そのものだった。
 ノートの上の私は、少し首をかしげていた。目線は斜め下。まゆが困ったように下がり、口元が少し突き出ている。幸せそうには、見えなかった。私って、こんな顔をしているんだ。
 ふいに泣き出したくなった。
「嫌だ、こんなの。嫌だ」
 私はバタン、と勢いよくノートを閉じて、スクールバッグに乱暴に投げ入れた。ものすごく嫌だった。藤田くんじゃなくて、藤田くんの描いた絵でもなくて、自分があんなにも醜い顔をしていることが嫌なんだって、気づいていたけどどうしても認めたくなかった。

「これ藤田くんのだよね」
 何の含みも感じさせないように、できるだけ自然に、何気なく聞こえるように。考え尽くされた第一声を、私は注意深く発した。藤田くんはゆっくりこちらを向いた。スケッチ事件の翌日は曇天で、もともと白い藤田くんの肌はよりいっそう透き通って見えた。
「そうだと思う」
「私のとこに来てた。持って帰っちゃったけど気付いたから。返すね」
 早口で言い切る。それでもなんだか怖くて、藤田くんの目を見ることができなかった。
「そう。ありがと。わざわざ」
 柔らかい口調で藤田くんは言った。ふ、と、私の手からノートが離れた。おそるおそる表情を伺うと、藤田くんはいつもと変わらない、控えめな笑みを浮かべていた。
 拍子抜けした。それと同時に、疑問がわきあがる。あのスケッチを見られたかもしれないとは考えないのだろうか?別に見られても構わないような、ほんの気まぐれで描いた絵だからなのだろうか?そもそもどうして藤田くんは、私の顔なんかを書こうと思ったのだろう。何を思いながら描いたのだろうか?あんな――あんなにも不満に満ち溢れた醜い顔を、あんなにも丁寧な筆で。
 その日一日中、私は藤田くんを目で追ってばかりいた。勝手に似顔絵を描かれたことに、気持ち悪いとか失礼だとかは思わなかった。ただ気になって仕方なかった。
 藤田くんは終始微笑んでいた。黒板を見て微笑み、ノートをとって微笑み、友達と雑談して微笑み、私が派手な音を立てて床にばらまいたヘアピンを拾ってくれた時も、微笑んでいた。微笑んだって、何の得もしないのに。
 それから藤田くんは、いつもどこか見ていた。ぼうっと眺めるんじゃない、そこにある何かをじっくり見つめているのだった。それは教科書や黒板や人であることももちろんあったけれど、時にはそこにないもの、もののうら、もののさきを見ているのではないかとすら思わせる目を彼はしていた。
 その日の帰り道で、私はタムラに聞いた。雲が分厚く濃くなっていた。頭に雑巾か何か詰まっているようで思考がうまく働かない、私の苦手な天気。
「ねえ、藤田く……藤田ってどんな子」
 タムラはびっくりしたような顔になった。
「ちょ、マリ何があった?なに興味あるの藤田に?」
「そういうんじゃない。気になったから聞いただけ」
「いやそれ興味だから。それこそ興味だから」
「あー今日寒い」
「聞けよ」
 ごつ、ごつ、ローファーのヒールがアスファルトを蹴る。しんと冷えた空気は、ぐるぐる巻きにしたマフラーや毛糸の手袋をあざ笑うかのように服の中に侵入しては、容赦なく体を冷やした。タムラはマフラーにあごを埋めながら何か考えているようだった。
「頭良さそう。優しそう。真面目そう。キザなこと言っても許されそう。オバサンにモテそう」
「最後の二つテキトー。てか全部推測じゃん」
「うんー、だって知らないもん」
「あんまり目立たないしね。今日初めて喋ったかも」
「それはマリが無関心すぎな。……すきありっ」
 私は縁石に飛び乗って、タムラが繰り出してきた攻撃をかわした。あ、そうだ、とタムラが言った。
「もう一つあった。楽しそう」
「……ああ。確かに」
 確かにそうだ、と思った。藤田くんは楽しそうだった。いつでも。楽しい要素なんてどこにもないように見える時も、とにかくずっと、常に。
「好きなものとかあるのかな。藤田の私生活って全然イメージできない」
 うわあ、とタムラが大げさに感動してみせた。
「なんかさ、マリがここまで誰かに興味持つの初めてじゃね?お母さん嬉しくて……」
「うっさい」
 泣き真似をするタムラの手を、私はパシッと払った。本当は自分でも思っていた。どうしてだろうとか、知りたいとかって感情を人間に対して持っている。今まで感じたことのない気持ちに、私は戸惑っていた。
「でも正直分かる」
 タムラが言った。私は顔を上げた。
「何が?」
「マリがさあ、藤田が気になるの。別に恋愛とかじゃなくだよ?私も分かるなーって」
 へえ、と私は言った。席替えをした日、友達になっちゃえよ、と妙に明るく言ってきたタムラのことを、私は思い出した。
「なんか藤田ってさー、」
 そこで一度、言葉を切る。タムラの横顔を見る。この子、こんなに輪郭のはっきりした子だったっけ?ふと思った。
「友達になってみたそうな顔してる」
 冷え切った空気に、タムラの放った言葉が優しく吸い込まれていった。私は意味もなく、ふあ、と息を吐いた。白かった。
「ああ。分かる」
 けどさっきの文法的にヘン。付け加えると、タムラが笑った。
「あ、それと」
「待って、信号チカチカしてる」
 何か話しかけたタムラの手を引っ張って、私は小走りで横断歩道を渡った。バッグの中身ががちゃがちゃ音を立てた。
「一つ知ってたわ、藤田の好きなもの。前に聞いたことある」
 走りながら話すから、タムラの声はぽんぽん飛び跳ねているように聞こえた。
「何?」
 湿ったグレーの空気が重かった。弾む息のまま、タムラは言った。
「曇りの日、だって」
 曇り?何それ、と私は言った。その時鼻先で空気が震えた。
「あ。ほっぺに雨来たよ」
 私は頬を拭った。すぐに雨は激しくなって、私たちはコンビニで傘を買った。

✳︎

「傘、持ってきてる?真理子」
 突然耳元で声がして、私はびくっとしてしまう。紗耶が後ろの窓を振り返って外を見ていた。
「傘?」
「うん。なんか降りそうだから」
「持ってきてない。天気予報では降らないって言ってたよ」
「さあね。降る前に帰りたかったけど」
 そう言って大きなため息をつく。電車はまだ停車したままだった。ずいぶんかかっている。混雑した車内で、十分以上も待たされている乗客たちは、怒っているというよりは疲弊し切っているように見えた。
「どうしたんだろうね。何かあったのかな」
「真理子寝てた?さっきアナウンスがあったんだよ、線路内にお客様が、っていつものやつだけど」
 詳しくは分かんない、と紗耶は言った。アナウンスなんて、全然聞こえていなかった。
 高校生の頃のことを考えていた。見ていられないくらい未熟だった私のこと、そして懐かしい友達のこと。恥ずかしいけれどなんだか愛しい。私はずいぶん丸くなったかもしれないが、その代わりに、あの頃の必死さをどこかに置いてきてしまった。それはもう、どうしようもないことなのだと、分かっているけれど。
「今年は本当に曇天ばっかりで嫌。花見しそびれそうだね」
「花見、か……桜、いい感じなのにね」
 人混みの隙間から、白い空がちらりと見える。紗耶の疲れ切った肩に曇天の重力がのしかかっていると思うと、なんだかいたたまれなかった。よくわかる、私にも。でも、でもね……心の中で、私は控えめに主張してみる。曇りの日が、全部最悪、ってこともないんだよ。
 曇りの日が嫌いだった。今も嫌いだ。でも私には一つだけ、好き、と言える曇りがある。
 藤田くんはもう忘れてしまっただろうか?私がこんなにも懐かしく思い出す、ささやかだけれどかけがえのない、あの日のこと。

✳︎

 その年は早くに桜が開花した。大学の入学式に間に合わないね、と私たちは言い合っていた。桜が咲いてから、しばらく曇天が続いた。
「モッチー、そっちじゃない」
 私はリードを引っ張って自由奔放なモッチーを叱った。マルチーズのモッチーは我が家の唯一のペットで、その時期暇人扱いされていた私は毎日のようにモッチーの散歩に駆り出されていた。
 今日は桜並木の方に行ってみようか。ふと思って、私は進行方向をくるりと変えた。モッチーが私の足に顔をぶつけて、クウンと鼻を鳴らした。
 卒業したのが未だに信じられなかった。明日からまた高校へ行け、と言われたら、平気な顔でそうできる気がしていた。もしやり直せるなら――なんて、考えたって仕方ないのに。
 桜並木は閑散としていた。いつ雨が降り出すか分からないような気象だから、花見客が来ようとしないのだ。私は、咲いてるなあ、くらいに桜を鑑賞しながら早足で歩いた。

 もし、やり直せるなら?

 これといったものは思い浮かばなかった。ただ、何かやり損ねたような、得損ねたような……ぽっかり空いた穴に、今更気付いたような……忘れ物をしたのだけれど、何を忘れたのかわからない。そんなような気持ちがしていた。
 そういえば、藤田くんとも、結局仲良くなれなかった。
私はもしかしたら、大きなチャンスを逃したのかもしれない。それも一つだけじゃない、いくつもいくつも、逃して生きてきたのかもしれない。グッと唇を噛んだ。春はセンチメンタルになるからいけない、と思った。
 三本先の桜の下で、誰かが写真を撮っていた。曇りじゃ綺麗に写らないだろうに。人間を見つけたらすぐ吠えるモッチーが、ご多分にもれず、キャン、と鳴いた。その人が振り返った。
「……清水さん」
 え?声が裏返った。私はその人をまじまじと見つめた。細身のデニムにチェックのシャツ、白い肌、細い――じゃない、一重で眠そうな目。本当だ、別に細くなかった。タムラすごいな……じゃなくて。
「藤田……くん?」
 私は上ずった声で言った。その人――藤田くんは、笑ってうなずいた。奇跡、かもしれない、と思った。
「偶然、だね、あ、卒業おめでと」
「おめでとう。散歩?」
 藤田くんは落ち着いた様子で言った。すっぴんでひどい格好をしているのに、よく分かったな、と思った。そしてそのままあのスケッチのことを思い出して、勝手に気まずい気持ちになる。
「うん。犬のね」
「かわいい。マルチーズ?名前は?」
「モッチー。……あ、本名はおもち、だけど」
「あーわかる。餅っぽいね、この子」
 よしよし、と慣れた手つきでモッチーをなでる藤田くんを見て、私は不思議な気分になった。案外よく喋るんだ。どうして今まで知らなかったんだろう?知っていたらもう少し仲良くなれたかもしれないのに――違う。知ろうとしなかったのは、私だ。また唇を噛んだ。
「家近いの?俺もたまに来るけど、会ったことなかったよね」
「近いけど……普段はこっちには来ないから……今日は、桜、見に」
「あ、俺も。こいつ俺の相棒」
 首から下げた一眼レフを、自慢げに掲げてみせた。
「写真、趣味なの?」
「趣味っていうか……ただ好きなだけ?」
 そう言って笑った。「楽しそう」タムラの声が蘇った。藤田くんは、楽しそう。シンプルに、まっすぐに、心から、楽しそう。
 私だって。本当はこんなふうに、生きてみたい。
「藤田くんは絵も描くの?」
 気づくと私は言っていた。あ、と思ったけれど、もう後には引けない。それに私はもう、忘れ物なんてしたくなかった。
「絵……?ううん、たまには描くかなあ?下手だけどね」
「下手じゃないよ」
「どういうこと?」
 私は足元で跳ね回るモッチーを意味もなく見つめながら言った。
「私の顔を描いたでしょ、英語のノートに……すごく上手だった。自分ってあんな顔してるんだって、初めて知ったよ、あの時」
 藤田くんは数秒間ぽかんとした後、ぱっと横を向いた。そして、ばつが悪そうに苦笑した。
「やっぱり見ちゃったんだ。ごめん、嫌だったよね……後から気づいて、俺変態かよって思った」
 恥ずかしそうに言う藤田くんを見て、私は大きく息をついた。気まずいのは私だけじゃなかった。張り詰めていたものが、少しだけほどけた。
「本当は聞きたかったんだ。どうして私の顔なんか描いたんだろうって。書きたくなるような顔じゃなかったでしょ?超不機嫌全開だったでしょ?いいよ、遠慮しないで言って」
 私は一息に言った。どうしてもそれだけは聞いておきたかった。そのために、今日こうして偶然会えたとさえ思った。
「何で……だったかなあ。確かにさあ、笑ってはいなかったよね、あの絵の清水さん」
「そうだね」
 私はいつだって、笑ってはいなかった。あの時も、今も。
「何でだろうって思ったんだよね。不機嫌そうだったり、悲しそうだったり、そういうのって何かしら理由があるわけでしょう?だから……清水さんは何を考えてるんだろう?何が見えてるんだろう?って……単純に、興味が、あった……」
 言っているうちに恥ずかしくなったのか、尻すぼみの声で藤田くんは言った。
「やっぱ変態だね。興味を持つと、とりあえず描いてみたり撮ってみたり、あれこれ想像してみないと気が済まない性格っていうか。俺能天気だから、物事をあんまり深刻に考えないんだ、だから清水さんの表情が新鮮だし不思議で」
 必死に説明する藤田くんが可笑しくて、私は思わず吹き出した。
「大丈夫。変態じゃないし、能天気でもないよ。すごくいいと思う」
 すらすらと言葉が出た。まるで自分じゃない、他の人の口が喋っているみたいに。どうしてこんなに素直になれているのか、全然分からなかった。ただ何にせよ、藤田くんのせいであるらしい、ということだけははっきりしていた。
 モッチーが、存在をアピールするかのようにジャンプした。足元にたまった花びらが舞い上がった。
「ごめんね、散歩中に呼び止めて」
「いいよ。そっちこそ、写真撮ってたんでしょ。曇りばっかりで残念だったね」
 軽い気持ちでそう言った、次の瞬間、私は動けなくなった。え?と聞き返すようにまゆを上げた藤田くんが私を見ていた。
 私はハッとした。何か、決定的に間違ったことを言ってしまったような気がした。「曇りの日、だって」タムラの声がまた蘇った。ああ、もしかして。気付かなければいけないことがあるらしい、ということに、その時初めて気付いた。

 私は間違っている。私は間違っていた。だからずっと、損をしていた。

 何かを分かりかける時の感覚がした。
「清水さんは、曇りが嫌い?」
 私はゆっくり頷いた。湿って重い空気が私を取り巻いた。肌が絡め取られるような感覚。厚く重い空に押しつぶされてしまいそうなほどの圧力。気力も体力も、ぐちゃぐちゃになった思考も吸い取られてしまう。昔から、曇りが嫌いだった。
 だから、諦めた。嫌いなものを受け入れること。嫌いなものを知ろうとすること。それを好きな人の気持ちを、理解すること。見ようともせず、捨ててきた。
夢の中にいるみたい。白く濁った世界で、藤田くんの声を聞く。今度はちゃんと、聞こうとしてみる。
「空が濁ってる。景色の輪郭がぼやける。色が映えない……曇ってるとうまく写真が撮れないって思うでしょ」
「違うの……?」
 藤田くんは、いたずらっ子みたいに笑って、カメラのストラップを首から外した。
「のぞいて見てみ」
「え」
 私はおそるおそる両手を差し出してそれを受け取った。ずしっ、とした重さが腕に伝わる。並木道の真ん中で、私は今来た道を振り返るように立ち、そっ、とファインダーに目を当てた。

 しばらく、何も言えなかった。

 桜が、光っていた。花びらの一枚一枚が濡れたように艶めき、こまかくこまかく発光していた。水の粒が空中でパーンッと弾けて空間いっぱいに満ちている――まるでダイヤモンドダストみたいに散りばめられた輝き。

「不思議でしょ。肉眼で見るのとは全然違う。世界がキラキラして見える。晴れている日に、こうは見えないんだ」
 カメラを構えたままの私に、藤田くんはそう言った。ああ、また、泣き出したい気分だ。だって知らなかった。こんなの全然知らなかった。
「ねえ、清水さん。こういう天気を何ていうか知ってる?」
「知らない」
 藤田くんの声が遠くから聞こえた。私は白い夢の中にいる。白昼夢って、こういうものじゃないだろうか?
「“はなぐもり”……って、いいます」
「はなぐもり……」
 ファインダーの中で、空がひらけた。ひらけた、ような気がした。広い広い、白い白い雲の海が、私を包み込んでいた。それはきらきら光る桜の花びらと溶け合って、一緒になって輝きを放つ。空気中に浮かんだ雫のかけらが風で瞬いては散っていく。
「だから俺、曇りが好きなんだ」
 私はカメラを顔から離した。
「私も好きかも。はなぐもり、だけなら」
 好き、と言ったらお腹の中がくすぐったくなった。嫌い、嫌いって、何千回も言ってきた今までの自分が全くつまらないもののように思えた。たった一回の好きで、こうも変わってしまうなんて。
「ちょっと清水さん、そこに立ってて」
 いきなり、藤田くんはそう言った。背負ったリュックの中に手を差し入れて、引き出すと、手のひらほどの大きさをした四角いカメラが出てきた。インスタントカメラ。
「え?撮るの?私を?」
「いいから。見ててよ」
 素早く構図を決めたらしい藤田くんは、慎重にファインダーをのぞきこんで、
「清水さーん」
 パシャリ。シャッターを押した。
「うわあ、いきなり撮ったから変な顔してるかも。見せて」
「大丈夫だよ、記念記念。色が出るまでちょっとかかるから、待ってね」
カメラの上部から出てきた写真は、藤田くんの言う通り、ぼんやりした像が見えるだけでまだできあがっていなかった。
「私もカメラ、はじめようかなあ」
「へえ。いいんじゃない?好きなことは、多いほうがいいもんね」
「そうかな」
「そうだよ。だってどうせ生きていくならさあ?出会うもの全部、好きになっちゃえばこっちのもんだよ。そしたら誰でも簡単に幸せになれる」
 ……とかそんな上手くいくわけないか!藤田くんはそう言ってふわ、と笑った。
「あ、そろそろできてきた」
 藤田くんができたてほやほやの写真をパタパタ振りながら呟いた。
「見せて見せて」
「ああ……いいなぁ。上手く撮れてる」
「ねえ、私も見る」
「はいはい」
 私はドキドキしながら、その写真に視線を落とした。
「やっぱり絵はダメだ。写真の方が、正しいね」
「これ……私?」
「そうだよ」
 ふふ、と、誇らしげに笑う藤田くんの隣で、私は自然と笑顔になっていくのを感じていた。写真の中の私は微笑んでいた。いつもの不機嫌な顔じゃなくて。頑張って作った、引きつった笑顔でもなくて。白い光の中で霞んだように滲む桜の下に、飾り気のないそのままの私がいた。そのままの私が笑っていることが、素直に嬉しかった。
「私って、こんな顔してるんだ……」
 突然風が吹いた。花びらが一斉に渦を巻いて、私たちの間を吹き抜けていく。藤田くんの姿が霞んだ。花びらのモザイクに隠れたその人が眩しくて、やっとの事で絞り出したありがとうの言葉は、ほとんど声にならなかった。

✳︎

 ブルルン、と音がしたのが合図のように、乗客が一斉に頭を上げた。それと同時にアナウンスが流れて、運転の再開を告げる。そこらじゅう、まるでため息の水溜りのようになっていた。
「動いたね」
「うん」
 スマホをいじることすらやめて目を閉じていた紗耶が、小さく伸びをしながら頷いた。目鼻立ちの整った横顔がかすかに傾く。下がった口角と苦しそうな眉間のあたりを、私は何気なく眺めた。藤田くんなら、紗耶のこともスケッチするのだろうか。
 好きだったのだ、と今更気付いていた。私は、藤田くんのことが、好きだったのだ。でもそれは一緒にいたいとかどうなりたいとかいう種類のものでもなくて、ただ私は、憧れていた。私とは正反対の考え方をする藤田くんが、眩しくて羨ましくて仕方なかった。その目に映っている世界を、できることなら私も見たいと思った。でもあの時の私に、彼を追いかける資格はなかった。幸せな人間になりたい――あの時密かに心の奥に据えたその思いは、もしかしたら、藤田くんに釣り合うような人間になりたい、そういうことだったのかもしれない。
 あれから少しは、成長しただろうか。静かに心に問うてみた。
 電車が止まる。ドアが開いて人の出入りが落ち着くと、乗客はだいぶ少なくなっていた。私たちの降りる駅まで、あと二つほどだった。
「あ、そうだ。ねえ紗耶、ここの区間、見えるかもよ、桜」
 私はふと気付いて紗耶に声をかけた。線路のすぐ脇が、ちょっとした桜並木になっている場所があるのだ。私たちの座席とはちょうど向かい側にあたるので、このくらいの混み具合ならよく見えるはずだった。
「雨降ってない?どっちみち曇ってるから見えにくいかも。かわいそうだよねえ、せっかく咲いたのに」
 桜のことをかわいそう、なんて言う紗耶がかわいくなって、私は微笑んだ。紗耶だって、嫌いになりそうなそこらじゅうにものに振り回されながら、それでも優しさを全部無くしてしまうことはできないのだ。
「こういう天気、本当にダメなんだよね、私」
 ため息まじりに紗耶が言った。うん、分かるよ、と私は答えた。
「曇りってどうしても好きになれない。なーんかやる気出なくなる」
「うん……ああやっぱり、咲いてるよ、見えるかも」
 カーブした線路の先に、桜並木の始まりが小さく見えた。幸せな人間でいたい。きっと私にまだ足りないのは、分けることだ。好きや幸せを、まわりに分けることだ。
「ねえ紗耶、こういう天気、なんていうと思う?」
「ええ?どういうこと?」
 電車は走る。いよいよ、桜並木にさしかかった。
「あのね、桜の季節に曇るのはね、はなぐ……」
 突然、目の前を風が吹き抜けた。私は最後まで言うことができずに息を止め、そして、目を見開く。
 反対側の席で、一つだけ開いた窓から、風が勢いよく吹き込んできていた。窓を持ち上げるような格好で外を覗き込む男性――あの時と、ほとんど変わらないままの藤田くんが、夢の中にいるかのように、風の向こうでゆらめいた。
 満開の桜が私たちの車両を覆う。グレーがかった空と花びらのピンク色がコントラストをなす。桜吹雪が窓を叩く。それは藤田くんの開けた窓から入ってきては、クルクルと踊り回る。まるで生きているかのような風が鼻先をくすぐる。湿った空気は肌を包み込み、しっとり染み込んで私たちを春にする。寝ていた乗客たちが頭をあげる気配がした。
「すご……」
 半開きになった紗耶の唇から、ぽろりと音がこぼれ出た。その横顔が、すっかり春に染まっていた。藤田くんの、はなぐもり、に、柔らかく染まっていた。
 私はこみ上げる笑いを抑えきれずに肩を揺らす。やっぱりまだまだだ。まだまだ、藤田くんには追いつかない、敵わないよ。藤田くんは私に気付いているのかいないのか、車内と外をゆっくり見まわして、満足げに頬を緩ませた。私も紗耶も他の乗客も、しばらく惚けたように窓の外を見ていた。
「きれい、だったね……」
 ぶわあ、と空気の塊が私たちに体当たりした。ひときわ激しい桜の雨が降ってから、桜並木は終わった。
「ありがとね」
「え?何が?」
 紗耶が不思議そうに聞く。私は笑って、何でもない、と言った。やっぱり、春はセンチメンタルになるから、いけない。
「へーんなの」
 紗耶が笑った。あ、今日イチの笑顔だ。小刻みに揺れる紗耶の肩に、ふわりと光る花びらを見つけた。

 オレンジの光に包まれて、白い花が闇にぼうっと浮かび上がる。無数の薄い花びらに、反射し合った揺らめく灯りが、絢爛でいて繊細な世界を醸し出す。暗がりに、柔らかな色がじわりと滲んではさざめいた。
すっかり日の落ちた公園を、私と紗耶は並んで歩く。駅前の喧騒から遠ざかるにつれ、火照った体も徐々に冷えていく。電車を降りてから、お互いずっと無言だった。
「銀行、寄らなくていいの」
「もう今日はいいや……真理子こそよかったの、知り合いがいたんでしょ」
「え?ああ、いいのいいの。気にしないで」
 急ぐわけでもなく、軽やかなテンポで遠ざかっていった藤田くんの背中を、私は思い出した。いつかもっと成長したら。そしたら今度こそ、藤田くんに言おうと思う。私は今、あなたのおかげで、毎日なんだか楽しいみたい、って。
「あのさあ……ごめんね。私が喋ってたから、見失っちゃったんだよね、その人のこと」
 紗耶がうつむいてそんなことを言うから、私は驚いた。夜桜を照らすライトが、紗耶の横顔に影を作っていた。私は言った。
「ねえ、紗耶の好きなもの、教えて」
 紗耶は私の方を向くと、可笑しそうに表情を崩す。「いきなり、どしたの」それから、言った。
「私さあ、真理子みたいになりたいわ。能天気で、幸せそうで」
 今度は私が吹き出す番だった。
「能天気、本日二回目いただきました。それで幸せなら上等でしょう」
「ねえ真理子、思い出した。私焼き鳥が好きなんだよね、それも夜桜見ながら食べる焼き鳥が、めっちゃ好きなの」
 紗耶の口からこぼれ出た、好き、の言葉が、線香花火の玉みたいに落ちて夕闇に染み込んだ。
「わーかった。今日は奢る。行こ」
 私は紗耶のシャツの袖を引っ張って急かした。それから、私の知り合い、さっき窓を開けて車内を桜まみれにしていた人だよって、打ち明けようかどうか迷う。それに私の昔の話や、次に会ったらお礼を言いたいと思っていることも、言ってみようかなあ、なんて考える。
 ねえ、こんな感じかなあ?私は少し、憧れのあなたに近づけた、って思っていいのかなあ?前髪をかきあげて息を吸う。柔らかい、真新しい空気が肺に満ちる。そうだな、今日の日記の書きだしはこうしよう。

 四月二日、金曜日。花曇りときどき桜吹雪。
 明日は、きっと、晴れる。

貴重な時間を使ってここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。