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【連作短編】とおくでほえる/#4 知らないフリ

わたしの手はいつまでも、お兄ちゃんにとどかない。だからやくそくしてほしかった、忘れられちゃうのがこわくて、あんしんしたくて。

「サクラはたぶん、べつのせかいに行っちゃったんだよ。三月うさぎみたいに、あなにおっこちて、それで……」

 声がふるえそうになったから、話すのをやめた。あたまと首がしばふにくすぐられてちくちくして、土のにおいもして、それで目の前にはぼんやり光るしかくい空がだまってうかんでいた。

「そう、なのかなあ」
 となりでねっころがってる、お兄ちゃんはそう言った。そんなわけないよって、言えばいいのに。べつのせかいなんて、あるわけないって。優しいお兄ちゃんのばか。優しすぎるから、わたし、今日も言えないよ。左うでが、何だかあつい。

「べつのせかいってさ」
 お兄ちゃんはわたしの顔をちらりと見ながら言った。
「想像するより、近くにあるのかもしれないなあって」

 そおっとふいてくる風みたいな小さな声で、そう言った。今思いついたんだけどね、とつけ足した。わたしはお兄ちゃんの目を見られなくて、しばふの上に投げ出されたつよそうな右うでのあたりをぼーっとながめてる。ドキドキが地面を伝わってお兄ちゃんにとどいちゃいそうで、こわい。

「だからね杏ちゃん、心配しないで待ってようよ、サクラのこと」
 いっしょに待つからさ。……だって。いつまで?いつまで待ってくれるの?ずーっと、ずっと待っても、見つからなかったら?お兄ちゃんは上半身を起こしてわたしを見下ろした。わたしの心の中が見えてるみたいに、ふふふ、って笑うんだ。笑うと口の横に、小さなえくぼができるんだよ、知ってるんだから。やっぱり言えない。優しすぎて。その目も口も声も、お兄ちゃんのせかいはぜんぶぜんぶ、優しすぎて。

 それからちょっとだけおしゃべりをして、だらだら歩いて、じゅうたくがいの入り口にある坂のふもとで、バイバイをした。来週も会えたらいいねーって、お兄ちゃんは言った。お客さんがいなかったら会えるね!ってじょうだんを言ったら笑ってた。子どもはやだな、何をしてもかなわないから。わたしも笑って手をふった。だけど、言えなかったことばがのどのおくに、お魚の骨みたいに刺さっちゃって、ズキズキいたかった。来週なんて、あるのかな。再来週とか、一ヶ月後とか、半年後とか、それよりかもっともっと、先とか。

 言えなかったこと。ほんとは知りたいこと。……ね、お兄ちゃん。サクラなんかいなくても、わたしのお兄ちゃんでいてくれる?

 にゃーお。
 おうちのげんかんを開けたら、冷たいゆかでのびをしながら、サクラがへんじをした。

✳︎

 サクラが見つかるまで、わたしのお兄ちゃんになって。
 そう言った時のお兄ちゃんの顔を、まだはっきり覚えてる。ちょっとびっくりしてた、当たり前だけど。それでまゆげを上にあげたから、まぶたのおくにかくれているビー玉みたいなひとみがいつもより大きく見えたんだ。わたしは心ぞうがあばれているのを一生けんめいかくしながら、あーあ、何言ってんだろ、変人かくていだ、って全力で後かいしてた。うつむいていたらお兄ちゃんの顔が目の前にきてて、わたしに合わせてしゃがんでくれたんだけど、それでこう言った。うん、わかった。やくそくね。それからそこで、ゆびきりげんまんをした。

 その次の日だった。サクラがふらふらって、帰ってきたのは。

 サクラなんかいなくても、わたしのお兄ちゃんでいてくれる?
 もしもそう聞いたら、お兄ちゃんはなんて言うかな。その日から何十回も想像した。それはだめかな、なんてたぶん言わないだろう。わたしががっかりすることを知っているから、言わない。何も言わないままきっと、まゆげをちょっとだけ下げて、口をむすんだり開いたりしながら、困ったなあって顔になるんだ。困った顔は、見たくない。おこった顔より何倍も何十倍も見たくない。だって気づいちゃうから。わかっちゃうから。お兄ちゃんは、本当は……

 バタン、ドアが閉まるあらっぽい音が二階からきこえた。それからどす、どす、どす、ってかいだんを下りてくる足音。高校のせいふくを着たお姉ちゃんが小走りでリビングをよこぎると、おけしょうひんみたいなにおいがした。くしゃみが出そうになって鼻をすすった。

「お姉ちゃん」
「ん」
 キッチンでコップに水をくみながら、お姉ちゃんはこっちをじろりと見る。胸より下までのびた長いかみの内がわが、すきとおった金色にそまっている。体をうごかすたびに、金色と黒は波のようにまざりあい、きらきら光る。見とれていると、お姉ちゃんはまたわたしをにらんだ。
「何見てんの」
「お姉ちゃん、どっかいくの」
 お姉ちゃんは答えてくれない。ふきげんそうに息をはいて、コップを流しにおいたままげんかんの方に歩き出してしまう。

「かみの毛、黒にもどしに行くの、お姉ちゃん」
「何しに行くとか、いちいち杏に教えなきゃだめなの?」
 後ろを向いたまま、ひくい声でお姉ちゃんは言った。しゃがんでくつをはくお姉ちゃんの背中をじっと見る。せいふくってこんなにきゅうくつそうに見えるものだったかな。わたしもわたしの友だちも、みんなあこがれてるブレザーとリボンのせいふく。さらさらきれいな金色のかみの毛が、ちぢこまったお姉ちゃんの肩の上でいごこち悪そうにゆれた。もったいないな、苦しそうだな。
「杏、お姉ちゃんのかみの毛、いいと思う。きれいだと思うな」

 お姉ちゃんはドアのとってに手をかけたまま、ふ、と振り返る。ほんのり赤くてぷるんとしたくちびるが、なんだか大人みたいでどきんとする。それからひやり、とする。なんでだろう。お姉ちゃんなのに。知らない人じゃ、ないのに。
「杏、お父さんとお母さんにゆるしてもらえるように言ってあげよっか。にあってるから、自信もって……」
「ねえ、何なの?」
 はっ、と息をのみこんだ。お姉ちゃんの両目がわたしを見おろしていた。冷たくて、暗い。日かげに立っている高いかべみたい。言ったことと、言いたかったことが、カツン、カツン、ってはねかえってきて、わたしの胸に重くのりかかる。
「だから嫌いなの。わかったようなこと言うから。何にも知らないくせに」

 が、っちゃん。
 目の前でドアがしまる。
 足音がとおざかっていく。シューズボックスの上にスマホがとりのこされていることに気づいたけれど、声を出せないまま、足音は聞こえなくなる。
 わたしはげんかんの前で体育ずわりをした。おしりが冷たい。どうして、なんだろう。

 どうして、知らないフリをするんだろう。

 痛い顔をしたのはわたしじゃないのに。かたくて冷たい言葉をはねかえして、痛かったのはお姉ちゃんなのに。どうしてかんけいないみたいなフリをするんだろう。お姉ちゃんのことなんかぜんぶわかるし、見え見えなんだよ。お姉ちゃんにだって、わかってるはずなのに。

 にゃーっ。サクラが高い声でないて、うずくまったわたしのせなかに体をすりすりしてきた。じいっと、しずかに、わたしを見る。何か言ってるの?ねえ、あんたも同じだよって、そう、言ってるの?

 胸がざわざわとさわいだ。そうだよね。そうだった。わたしだって、知らないフリしてた。ずっと、今も。

 お兄ちゃん。どんなにいっしょの時をすごして、好きなものやきらいなものを知ったって、どんなに仲良くなったって、わたしの手はいつまでも、お兄ちゃんにとどかない。ビー玉みたいな目のおくに、ほんとは何がしまってあるのか、いつまでたってもわからない。わかってた。だからやくそくしてほしかった、忘れられちゃうのがこわくて、あんしんしたくて、

 わたしのお姉ちゃんは、お姉ちゃんしかいないのに。

 サクラがわたしのひざにのっかって、またにゃあとなく。わかったよ。だけどまだ、まよってるよ、ふあんだよ。お兄ちゃんとわたしに、見えない糸はむすばれているだろうか。ほんとのこと話したら、その糸は切れちゃうだろうか。またつなぎなおしたいと言ったら、お兄ちゃんはどんな顔をするかな。

 近くにいるようでとおい人。遠くにみえるのにほんとはすぐとなりにいる人。このドアをあければ、そのどちらにも会いに行けるのに。まどの向こうだって抱っこしてもらわなきゃ見えないくらい小さいわたしには、世界は広すぎるし、むずかしすぎるよ。暗く、さむくなってきただいどころでふるえながら考える。

 ゆっくりでいいんだよお、わたしの顔をのぞきこんだサクラの目が、そう言ってくれているような気がした。わたしはお姉ちゃんのスマホをつかんで立ち上がり、どろでよごれた運動ぐつをはいてドアをいきおいよく開ける。それから広いこわい、ちえのわみたいにふくざつな人ごみに向かって、こわごわ一歩をふみだした。

貴重な時間を使ってここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。