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【掌編小説】げんえい

 ベニがどこかへ行っちゃったんだ。

 目が覚めたら12時だった。つけっぱなしのテレビから、梅雨前線がどうのこうのと喋るアナウンサーの声が聞こえてくる。二度寝している間に、どうやら梅雨が来たらしい。
 のそのそとベッドを這い出して、窓のカーテンを開けた。白い光ーーほんとに雨が降っている。梅雨だからってかしこまっちゃって、“しとしと“なんて音まで行儀の良い雨だ。
 申し訳程度についている流しで水をくんで、ごくごく飲んで、その手で冷蔵庫を開けてみたけどなんにもなくて、かろうじて奥の方に転がっていた魚肉ソーセージが見つかったのでそれを食べた。もそもそしていてあまりおいしくなかった。
 休日のブランチにしてはあまりに質素すぎる気がしたが、なんだか食べることすら面倒に思えてきた。ソーセージのゴミを流し台に残したまま部屋に戻る。テレビを消す。静けさが突然、耳になだれ込んできて、誰もいない部屋の空気に、僕は溶け込む。

 ベニはどこへ行ってしまったんだろう。

 乱れたベッドに腰掛けると、そこは不快に湿っている。僕はもう一度寝転がる。水に潜るように、布団に体が沈み込んでいく。まどろみは背後からゆっくり忍び寄る。
 まぶしいあの子について考える。あの子がさしてる真っ赤な傘が、ぼんやり浮かぶ。あんな色、目に染みる強い色、いいなって思ったの初めてだ。真っ赤な傘をさしてもいいのは、あの子だけだって思う、絶対に。まどろみはたやすく頭の中に忍び込む。
 僕も知らずに、左手がうろうろベッドの上をさまよって、見つけた冷たい感触は世にも便利なメッセージの入口。ほんの時たま、行ったり来たりするあの子との画面が、いつの間にか目の前にある。「おやすみ」と目を閉じて言う猫が一匹。何日か前に僕が放ったそいつのゆくえは知らない。

 ベニはもう、戻ってこないような気がしている。

 ああでも、いくらなんでもこのベッドは湿りすぎている。雨はあと何日間ふり続けるだろう。あれはどうだろう。少し前にドラッグストアで買ったよな、あのスーッと匂いのするミスト。そうだよ、買い物したのに、肝心の歯磨き粉また忘れたな。僕はあと何日間忘れ続けるだろう。
 秒針の音が消えたり、また聞こえたり。雨の音はずっと消えなくて、BGMみたいに頭を占領している。歪んでできたわずかな隙間から赤い傘がまだ見える。その傘越しにとうめいな肌までが見える。あの子は大きく振り返る。そして笑う。笑う。一瞬、雨の音が消える。強すぎるから。
 隙間から差し込んだ光が、あまりにも強すぎるから。
 ねこの好きなあの子にベニを見せてやりたい、と僕は思う。ベニには首輪をつけなかった。だけどベニのための猫缶をいつでも切らさなかった。来るかもしれない、でもこないかもしれないベニのために。
 無意識に指が滑る、硬いガラスの上。“そっちは雨がふってる?“という文字がひとりでに並ぶ。隔てるガラスが、かなしいかもしれない。屈折した視線が本当に僕を見ているのかはわからない。わかったらどうなのか、もっとかなしいのか、なぜなら僕の世界の登場人物は圧倒的に少ない、あの子ばかりが現れるのはそれは不本意だって。げんえいのあの子は、僕が触れることを許さないのに。
 ーー馬鹿だな、雨はどこでだってふってる。いつの間にか文字は消える。

 ベニはでも、いつかはまた現れるかもしれない。

 雨が強くなった。それでも聞こえるほどの轟音が腹から出た。魚肉ソーセージは消化が早いんか、何か食べるか?正直レトルトはもう飽きた。あの子は一体何食べてんのか。冷凍でもおいしく食べるよ多分、それかおしゃれなカフェでパンケーキとか食べてんのかな、太るとか言わないんだいつも。で、向かいに誰か座ってたりとかすんのか。嫌だ。
 本当言えばとっくに完敗してんだ。もう全部持ってかれちゃってんだ。もう何の異存もない、全部君のしたいようにしたらいい。どんどんどんどん、布団の中に潜っていくこの重たい体も全て、僕は預けられるよ君はさ、どうなんだよ。
 なんて、笑えるか。現実は遠い遠い、分厚いガラスの向こうにいるあの子。いっつも顔じゅう笑って、ずるい。あの子の世界で生きてみたいさ。その目を貸して欲しい、ずっとじゃなくていいから……いやずっと借りていたいけど、でも誰より知ってるんだ僕は、それだけは自信がある。手の届かない笑顔は眩しくて尊くて100年生きたって僕のものにはならない。言うこと聞かない心は思う。他のどこかになんて行くなよな、とかって焦げそうな感情。だけど天邪鬼な脳みそは僕に笑えと言う。僕は笑う。楽しそうにはしゃぐあの子を見て、泣きながら笑う。
 お願い、どこに行ってもいいから。他の誰にも似合わない真っ赤な傘さして、いつまでもくるくる回っていて。
 目を閉じたら思い出せるから。いくらでも。頭の中であの子が雨を散らして笑う。

 ベニは僕の部屋の前でうずくまっていた。最初に見つけたあの日。むさ苦しく生い茂ったオシロイバナの根元で眠るそれの上で、赤ともピンクともつかない深い色の花がラッパみたいに空に顔を向けていて、丸くなって眠る白い塊に、ベニ色の光を落とした。僕はそいつに首輪をつけなかった。いつかいなくなってしまうと、わかっていたから。それでもいつか、ふらりと姿を見せてくれるかもしれないと、弱々しい期待もしたから。

 目を閉じたまま、呼吸だけが続いていく。秒針の音はもう聞こえない。なのに雨の音はどんどん大きくなる。ざあざあとふる。無秩序で終わりのない音楽に打たれるような重い眠気が襲う。赤い傘だけが目の奥にくっきりと残っている。僕は溺れ、沈む。
 遠くでにゃあと声がしたけれど、それが現実で聞こえたのか、それとも夢の中でなのか、もう分からなかった。


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この曲を聴きながら書きました。

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