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【連作短編】とおくでほえる/もしもの私

硬く縮こまった記憶を溶かすような春の匂いが漂う日、憧れだったかもしれないその場所で、私はもう一人の私を見た。

 トウキョウ、と口にするといつも、私の心臓はチリチリ泡立つ。電車から降り、人の波に乗って改札を出ると生暖かい匂いがした。トウキョウの、春の匂い。

 たくさんの人々が流れるように歩いていく先には、一体何があるんだろう。顔も服装もみんな違うけれど、どこか同じ空気を感じる。東京を着ている。無表情なそれをまとって、けれどその中にはきっと色とりどりの人生を隠して。

 無意識のうちに自分の顔がこわばっていることに気づいた。おんなじような顔して紛れ込もうとしているんだね、私、って、ちょっとウケた。

 トウキョウの分子のひとつに擬態して歩いた。やっぱりどこか、違う。わかっている。持っている中で一番高いスーツを着てみても、自信なさげに丸まった私の背中は悲しいくらいになじめてないって。ナチュラルカラーのポニーテールが泣きたくなるほど個性に欠けるなんて、普段は思ったりしないのに。芸術品みたいなこの人混みに紛れることは、私にとって叶わない夢のように甘やかで、そして遠いのだ。

 目的の建物まで、駅を出てから十分以上歩かないといけなかった。流れに沿って歩けばもっと早く着くかもしれないけれど、慣れないヒールに神経を使うせいでそれは難しかった。気温はだいぶ高くなり、どこかから飛んできたピンク色の花びらがアスファルトの上で、紙くずと一緒に踊っている。

 今年で社会人二年目になる私も、仕事の都合で都内へ出向くのは初めてだった。時々買い物をしたり、友達と遊びに来ることはあったけれど、それはテーマパークに行くとかショッピングモールに行くとかと同じようにして東京に行っていたのであって、こうして人の息づかいや生活を隣に感じながらトウキョウを歩くのとは全く違っていた。

 少し先に、今日の目的地であるガラス張りのオフィスビルが見えた。あのオフィスを目指し、毎日この道を歩く未来が、もしかして私にはあったのだろうか。
 例えば私に両親がそろっていたら。もう少し時期がずれていたら。それとも、あの時言えていたら。やっぱり諦められないよ、とかそういうふうに。

 タラレバは魔物だ。そうわかっていても、突然現れるしこりみたいな未練がしつこくそいつを呼び覚ます。

 大学を出た後、地元で働くことに決めたのは私だ。ひとり親な上に足を悪くしたばかりだった母に、あなたを置いて上京しますなんて言えなかった。こうして私はまた偽善者ぶる。自分で決めた、と言いながら、心の中では母を言い訳に使ってタラレバを召喚するのだ。

 だけど、と私は思う。人生は選択の連続だ。後ろを振り返れば、無数のもしもが石ころみたいに転がっていまだに私の足元を惑わす。そこにもここにも、もしもの私がいる。肩にかけたバッグが重い。立ち止まってぐるりと首を回した。

 不意に、おかしな気分に包まれる。道を行き交うスーツ姿の人々が、急に能面みたいに表情を失った。あの人もあっちの人も、いつかのもしもの私かもしれないのだ。いつのまにか目の前に迫っていたオフィスを見上げ、私は懐かしい、と思った。洗練されたエントランスを颯爽と歩いて入ってゆく自分が、見えた気がした。それは一瞬の、けれどあまりにリアルな、錯覚だった。

「ミヤタ先輩!」

「えっ?」

 突然名前を呼ばれ、後ろを振り返った。おしゃれなオフィスルックに身を包んだ小柄な女の子が小走りで駆け寄ってきていた。今私は、別の自分、だとかそんなまさか?回転数を増した心臓の音がうるさい、

「ミヤタ先輩待ってください……って、私もご一緒してもいいですかっ」
「……レイちゃん?どうしたの?」

 レイちゃん?と呼びかけたその声は私の口から出たものではなかった。女の子は私の横を通り過ぎると、少し前を歩いていた背の高い女の人の隣に、並んだ。耳栓を外した瞬間のように、周囲の音が一度に鼓膜に流れ込んだ。一瞬の錯覚は、白けた顔をして去って行った。

 ミヤタ先輩と呼ばれた女の人を目の端で追った。チラリと見えた横顔は端正で、飾り気のないはずのポニーテールが嘘みたいに魅惑的に揺れていた。あの人も、もしもの私、なのだろうか?

 ふるふると首を振り、私は歩き出す。やめよう、変なことに希望を持つのは。
パラレルワールドがあったらな、私はぼんやり考える。きっとそっちの世界では、私は都会でバリバリのOLで、年下には慕われて、ポニーテールも垢抜けてるんだろな。だけどどうだろう、そっちのミヤタは私のことが羨ましかったりするのだろうか。春霞の奥に隠れた太陽が脳みそをゆっくり溶かし、私の気分をぷかぷかもてあそぶ。

 見つける術のないもう一人の私にシグナルを送れたらいいのに。つま先のすり減ったハイヒールをわざとらしく鳴らしながら、私はピカピカに磨かれたエントランスへと歩いていく。

貴重な時間を使ってここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。