向き合い3 2006年の体験記録
「すべてを手放しましょう」
それを告げるのは簡単なことではありませんでした。
自分の人生のコントロール一切を手放し
「私」を完全放棄し 明け渡すのは、
そう簡単なことではありませんでした。
この先になにが訪れるのか、
どんな自分になるのか完全にみえない、選ぶこともできない。
そう思うと 怯える自分もいました。
真っ直ぐな心で明け渡せる状態になるまで、
数ヶ月の月日が必要でした。
「すべてを手放しましょう」
私は目を開けました。
そこには、さっきまでと大して変わらぬ自分の姿がありました。
でもひとつだけ、大きく違うものがありました。
それが、
<満たさせずに、自分の存在価値を求め彷徨う私の姿>
の消滅でした。
同時に、
<私のこの状態を好ましく思っていない無数の視線>
の消滅でした。
彷徨う私の自我が消えた時、
あの視線も消えていたのです。
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あれから半年以上。
今の正直な気持ちは、
サイキックな能力が欲しいのかと聞かれたらNO
自分の前世を知りたいのかと聞かれたらNO
未来を知りたいのかと聞かれたらNO
答えが欲しいのかと聞かれたらNO
誰かに何かを与えたいのかと聞かれたらNO
商売にしたいのかと聞かれたらNO
です。
それ自体は、・・・・どうでもいいと思っています。
それらは手段と成り得ても、私の目的とはなり得ないからです。
同時に「これらが自己の成長に必ずしも必要か?」
と聞かれたら「NO]と言います。
(否定しているわけではありません)
なぜならば、大切なものはいつも、
いつだって今ここにあると気づいたからです。
道のりはひとつではない。
だから必要でも必要でなくも、どちらにも成り得るもの。
あの一連の出来事を通し、
たくさんのことを教えてもらいました。
自分はなにをすべきか、
私はその答えを求めていました。
魂を磨きたい。
その衝動に突き動かされ、模索していました。
でも私は、その衝動(疑問)がどこからやってきているのか、
そこに目を向けていませんでした。
衝動(疑問)の先ばかりを追い求め、
生み出される衝動(疑問)の本源をみようとはしていなかったのです。
だからこそ、磨こう、探求しようとするにあたって、
私は私がなにをしようとしているのか、
私が一体なにに手を出そうとしているのか
なぜそれをしようとしているのか・・・をまず知る必要がありました。
スピリチュアルな実践を行う、
それは豊かさと楽しみの行為。
真の楽しみを味わいながら行う。
それは真剣な行為。
真剣になることで、神聖な領域と安全が導き出され
楽しみを満喫しゲームすることもできる。
だからこそまず私は、自分を知る必要性がありました。
そして一旦手放す必要がありました。
でなければ、スピリチュアルな実践は
その方向性を誤り自分を傷つけもしてしまうから。
そうして見つけたもの。
それは
自分はなにをすべきか
ではなく
自分はどう在りたいか
でした。
私にとって「なにをするか」はもう問題ではありません。
「なにか」は私にとって幸せにも満足にも成り得ないと
教えてもらったからです。
これまでの私は、
いつも誰かに納得させてもらうことばかりを考えていました。
いつだって正直なつもりでした。
頑張っていると思っていました。
頑張っているのになぜ上手くいかないの?
そんな苛立ちや焦りが襲うこともありました。
いつだって誰かのせいにしたかった。
外にばかり答えを求めていました。
責められることに怯えていました。
自分を守ることに必死でした。
自分を責めてばかりもいました。
でも
正面を向いた時、
見えたものは安らぎ、
感じたものは喜び、
触れられたものは信じる力、
包んだものは愛情、
自分へのご褒美は…許し
この一連のことが起こるまで、
変化とは 外側の何かが変わることとずっと思ってきました。
でもあの出来事のなかで、
変化とは、自分が変わることで起こるものなのだと 教えてもらいました。
世界が変わるとは、
なにかを変えることで起こすのではなく、
私達ひとりひとりが変わることで起こるものなのだと
教えてもらいました。
幸せは、
どこかにあるものではなく、
なにかが幸せにしてくれるのでもなく、
それはすぐそこに
今ここにあったのだということを 教えてくれました。
自分に正直に、根本を見つめ、そして自分に正直に行動するとき、
物事が動いてゆくのだと教えてもらいました。
私はいつだって1人ではないのだということも教えてもらいました。
どんなことがあっても、
私の魂には何一つ傷なんてつかないということも教えてもらいました。
スピリット。
その核に宿る輝きは、肉体というマントを羽織っても尚にごることなく
輝かせられるんだということを教えてもらいました。
私の旅は、今もこれからもずっと続いてゆきます。
その途中経過として、今回これを書かせていただきました。
信じてほしい、
これが正しい、
そう言うつもりは毛頭ありません。
それは私が言う言葉ではありません。
みんなにも助けられ、背中を押してもらい、励まされ私は今ここに居ます。
読んでくれるみんながいる。
だから書くことができた。
ありがとう。
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