見出し画像

『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』レビュー①

『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』 著者 大木毅 Takeshi Oki

 新書に解釈の余地はない。だから著者大木毅氏(以下大木)の文章を独自に解釈することはできない。あるのは批判のみだ。新書への批判とはすなわち、事実の提示である。事実を提示することと、意見を述べることの違い。それは近年、筆者の周囲で取り沙汰されている話題でもある。自分の発言が自分の信念の変奏なのか、生じている事実のパラフレーズなのか。それを判別できない人が多いという。それはそうだと思う。信念とは盲目を誘うものだ。
 河合塾が、センター試験に代わる「大学入試共通テスト」の模擬問題をインターネットに掲載した。「佐藤健」によれば、両者には強い癒着関係があるという。
 「河合の参考書にしか出てないキーワードがセンターではよく出る」
 というのが彼の経験則だ。それは事実ではなく、彼の意見だ。
 英語の問題を解いてみると、筆者は100点中72点しか取れなかった。大変恥ずかしい。ざっと見直してみても、すぐには間違いに気が付けなかった。文章は読解できている。文法の解釈も間違っていない。私は解答に、「文章に書いてあること」を選べていた。ところがそれが盲点だったのだ。設問は、「(著者の)意見ではなく、事実を選べ」となっている。逆の設問も散見された。
事実と意見の差異は、ある信念(イデオロギーと言い換えても良いかもしれない)を基にした解釈によってその隔たりを失う。あのテストの場合は、受けてきた教育によって育まれた技術がそれにあたるか。歴史学とは、事実の決定をする学問だ。これは筆者の主張(=意見)である。
 2020年の新書大賞を獲得した本著は、米ソ冷戦から更新されない、日本人が持つソ連へのイメージ(当国が発したプロパガンダ)に深く切り込む作品となっている、という。そのイメージを私が持っているか否かは「わからないこと」だ(方法的懐疑の「判断保留」を活用。委細『方法序説』ルネ・デカルト著を参照)。いま、「私は独ソ戦について正しいイメージを有している」と主張するべきではない。
 
この戦争で生起した諸戦役の空間的規模は、日本人には実感しにくいものであろう。(引用 同著 大木 Pi L10)……ヴォルガ川岸にあるスターリングラードを、隅田川にある東京に置いてみようすると……この戦いの発端となったハリコフは、金沢の西北西300kmの海中にある。(引用 同著 大木 Pii LL1-11)

これが冒頭に用意されているということに、本著のメッセージを嗅ぎ取らねばならぬ、というのが筆者の主張だ。これに反抗するならば、その者は「空間的規模」なる現実を、異なる比喩によってでも「実感」していただろうか。私はできていなかった。山脈を3つ超えた、金沢の300km向こうとはどこだ?こうして地図を眺めてみると、筆者の祖父が「先の大戦」と呼んだ「戊辰戦争」が偲ばれる。その「空間的規模」を「実感」していただろうか。歴史認識というのは、このように育まれるものなのだろうか。教えを乞う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?