見出し画像

複雑なことを複雑なまま受け止める

「誰にでも分かりやすく簡単に」という言葉はどれだけ罪深いだろうか。誰にでも、分かりやすく、そして簡単に。そんな物事はまず存在しない。誰かに分かることは、違う誰かにとって全く理解しがたい物事であるし、分かりやすいと思う人の横には必ず、分かりにくいと思う人がいる。全員に分かる物事があると考えるのは幻想だ。

今週、ネトフリでカードキャプターさくらのシーズン3を観た。2000年に公開された『劇場版カードキャプターさくら 封印されたカード』を観て以来だから、何年ぶりになるだろうか。その間もなんとなく観たい気持ちになっては、印象に残る回だけ観たりしていたけれど、「クリアカード編」のアニメを通して、知らないさくらと出会うのは久しぶりだ。

小学生だった主人公たちは、中学生にあがっていた。さくらが恋する(両想い)の小狼は台湾から帰ってきていたし、個々で連絡を取る手段がスマホでの通話に変わっていた。当たり前だが色々な変化があった。

その中で変わらないことと言えば、登場人物同士の関係だ。本作を知らない人のために簡単な登場人物紹介を記しておく。

・木之本桜…主人公
・李小狼…桜の同級生、両想いの相手
・大道寺知世…桜の親友
・木之本桃矢…桜の実兄
・月城雪兎(月)…桃矢の親友

他にも主要人物は多いけれど今回の話に関係ないので省略する。原作を読むと分かるが、物語は意外にも複雑で、生まれ変わりの話とか、魔力の話とか、カードの話とか、なんか覚えることが多い。でもその複雑なところも本作が好きな理由だ。

少し脱線したが、カードキャプターさくらに登場する人物たちは、とてもLGBTフレンドリーなのだ。小狼は初め雪兎に恋愛感情を抱くし、知世は桜のことを友人として、そして恋愛対象としても見ている。さらに雪兎から桃矢への矢印も向いているときた。異性愛と並んで同性愛が普通に描かれている。

それ以外にも桜の両親は元生徒と教え子という関係で、桜の友だちのリカちゃんは、学校の先生と付き合っている描写があったりする。超自由な恋愛模様が描かれる本作を小学生の頃に観て育った人は、ごく自然に彼らの恋愛を受け止めたはずだ。

このことを考えながら思ったのは、複雑であることを複雑のまま受け入れることが心の土壌を耕すことに繋がるのではないかということだ。桜たちの恋愛事情は本作の軸ではないものの作品に必要な要素であることは間違いない。かといって恋愛にフォーカスして濃く描かれることは多くないし、描かれる場合は“そういうもの”として自然に描かれている。だから私自身も“そういうもの”として自然に受け入れることが出来た。

この“そういうもの”として受け入れることが、年々難しくなってきているのではないだろうか。人間の脳は簡単なものを好むというが、ここまで顕著になるともう複雑さを複雑のまま受け入れることからどんどん距離が出来ていくのではないかと思う。私たちの脳は“簡単”で“分かりやすい”、インスタントな物事を主食にするようになったが、それはふやけた煎餅を食べ続けるようなものだ。食べやすいが、食べた実感は微々たるもので、栄養としては最悪だ。そろそろ、自分たちが粗悪な物事だけを食べていることに気付く必要がある。

カードキャプターさくらは複雑な物事の一例で、その他にも複雑に構成された物事は数多くあるだろう。自分の理解の範疇にないことを、自分の理解が及ぶ範囲に縮小することなく、そのままのサイズと複雑さを維持したまま受け止めること。弱体化した脳みそは、複雑な栄養素を注入し続けることで、複雑さを受け止める強さをまた持つことが出来る。

インスタントさを求めそうになったら「複雑なことを複雑のまま受け止める」ことを何度だって思い出したい。正しく変わりゆく世界の動きを引き止めてしまうことがないように。

この記事が参加している募集

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?