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やがてマサラ #21 ユーラシア大爆走

この5年間の放浪旅暮らしをドラマティックに終わらせよう。旅人魂は不滅です。

飛行機で飛べばひと晩で着く日本に、陸路と海路で帰ってみようと思い立ったのです。だって地図を見ていたら地続きで、なんだかとってもわくわくするじゃない?

東欧への長距離バス

2006年当時、東欧のEU統合でイギリスには東欧から多くの人が流入していました。カフェでもどこでも東欧系の人たちが働いていましたし、私がフラットシェアしていたアパートも8部屋のうち5部屋がポーランド人だったこともあります。

帰国計画ではシベリア鉄道でロシアを横断するつもりだったので、まずはモスクワに行かねばなりません。

まともに移動するととてもお金がかかるようですが、ロンドンからは東欧各国を行き来する格安の長距離バスが出ていることを聞きつけました。バルト三国まで夜行バスで2泊3日、1万円程度。夜行なので宿泊代も節約できます。よしそれに乗るぞ!

リトアニアのビルニュスへ

乗り込んだ長距離バスは東欧の人々で満載。東洋人は私ひとりでした。

国に帰るぞー! という雰囲気はどこであってもいいものです。老若男女の皆さんにこにこ。垢抜けなくて、シャイで、でも困ってるとさりげなく助けてくれる人たち。バンコクからコルカタに飛ぶ機内で久しぶりの里帰りにはしゃいでいたインドのお父さんたちとどことなく似通った雰囲気。

このころ女衒が暗躍し性産業に売られる女性たちがあとをたたないという東欧のニュースが盛んに流れていました。インド亜大陸でも貧しさゆえに農村から売られる少女たちがいます。洋の東西を問わず、人の行き来は富の真ん中にむごい道を作っていく。この人たちひとりひとりにどんな家族がいて、どんな生活をして、どんな思いで「西側」に行っていたのかなということを、あまり寝心地のよくないバスのシートで考えていました。

ルートはたぶんこんな感じ。意外と1日で移動できてしまうヨーロッパ。

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まずはイギリスからフランスへ、ドーヴァー海峡を渡ります!

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フランスへはバスごとフェリーに乗ります。船内に個室はないのでフリースペースで仮眠。

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フランス北部をかすり、オランダを通りドイツあたりの風力発電地帯。

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ポーランドだったような。なにが書いてあるかさっぱり分からない看板に萌えます。アメリカの象徴コカコーラの看板があるのが新鮮でした。

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眠い。とても眠かったです。

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ポーランドとリトアニアの国境。バスを降りてパスポートチェック。

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さてリトアニアのビルニュスはとってもおしゃれな街でした。駅前のホテルに一泊。物価は……とても高かったです。

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高田馬場とビルニュスの不思議な縁

ビルニュスでは会いたい人がいました。かつて交換留学で早稲田大学に学び高田馬場のスーパーでレジ打ちのアルバイトをしていたリトアニア青年がいまして、私の友人が「なぜ彼のような西洋人がこんなところに?」と声をかけたのがきっかけで知り合ったミンディくん。

第二次世界大戦中、リトアニアの日本大使館でドイツの迫害を逃れてやってきた人々に国の訓令に背いて日本へのビザを発給した外交官、杉原千畝さんの足跡を訪ねる一団がちょうどビルニュスを訪れていまして、その席に乱入させていただきました。高田馬場にいた人にまさかここで再会するとは、人生とは分からないものです。

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なんだか分からないけど美味しかったです。すみません適当なレポートで(笑)

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節約のためスーパーへ。異次元。なにが書いてあるかまったくわからないの久しぶり。

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短い滞在だったけれど楽しかったビルニュスなのでした。

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ラトヴィアを通って、バルト三国通過。一路、モスクワへ。ひと晩で着きました。

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モスクワで道案内

ロシアの旅は思いのほかオカネがかかります。安宿がなく、外国人はごく限られた中級以上のホテルに滞在しないといけない時代でした。

とりあえず行ってみました赤の広場とクレムリン。自分で書いていて今回の記事とってもつまらない、ロシアへの愛がない(笑)。

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誰かと写真を撮りたかったのです。すごくどうでもいい旅行記ですね(笑)。

モスクワの地下鉄は有事の際のシェルターにもなるそうで、どこもダダっ広くそして壮麗なステンドグラスがみごとでした。

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なぜか私は世界中の「そりゃないでしょう」という場所でよく道を聞かれるのですが、このときも地下鉄乗り場でちょっと田舎風なロシアの方に乗り換えを聞かれました。いや私も今朝着いたばかりです、どこからどう見ても旅行者でしかない東洋人でしょうと思いつつ、路線図を見たりしていたらちゃんと案内できた不思議。

まあ人のいるところなんて世界中どこでもそんなに仕組みは変わらないものです。それにしても私はいったい何人に見えるのだろうといつも不思議です。

鉄格子にカネ返せと叫ぶ

さてこれだけ旅をしていて、ヒトサマをお連れする添乗員という仕事をしているにもかかわらず、たびたび旅の途中でやらかしているのはここまで読んで下さった皆さまはご存知ですね。

ロシアに行くにあたり、看板などが読めないと困るだろうと、ロシア語のキリル文字の読み方だけは事前に覚えてありました。しかしそのほかに知っている言葉といえば、「ダー(はい)、ニエット(いいえ)、スパシーバ(ありがとう)、パジャールスタ(どうぞ/すみません)、ハラショー(素晴らしい!/了解した!)」の5語のみ。

いまでこそロシアの若い方は皆さん堪能な英語を話されますが、当時はまだ一般の方々には日本以上に英語が通じませんでした。

モスクワからウラジオストクまで7泊8日(時差の関係で逆方向は1日短い)で駆け抜けるシベリア鉄道の切符は日本円にして4万円程度だったと記憶しています。400ユーロを握りしめ、両替に向かいます。銀行のレートをいくつか見比べて、ふと隣を見れば銀行よりもレートのよい私設両替商の看板が。

長年旅暮らしです、そこはすこしでも条件がよいほうを選びます。

宝飾店の奥の奥に入った場所に、その両替商はありました。銃を持った警備員に見守られながら中に入ると、そこは3畳ほどの狭い部屋。奥に鉄格子があり、その中でお姉さんが暇そうに座っています。

400ユーロのうち、300ユーロを差し出しました。ロシアルーブルを鉄格子の奥で数えて私に見せ、「パジャールスタ(どうぞ)」とカウンターの下の差し出し口からまずは小銭を渡してくるお姉さん。小銭を受け取り、次に紙幣。いつもならそこで私も数え直すのですが、閉所恐怖症気味の私は早くその窓のない小部屋から出たくて、紙幣を掴んですぐに部屋を出ました。銃携帯の警備員、宝飾店。

外に出てちょっとホッとして、でもやっぱり残りの100ユーロもルーブルに換えておこうと、今度は銀行の扉を入ります。100ユーロをルーブルに換え、そこで先ほどの紙幣と合わせて数えてみましたら。

「ん?」何度数えても、ゼロの数がひとつ、足りないのです。最初に両替した分が4,000円程度しかない。それではシベリア鉄道の切符を買えません。

鉄格子だ! や・ら・れ・た!

小銭を渡され受け取るときに一瞬、私の視線は両替商のお姉さんの手元から外れました。わざわざ数えて見せた紙幣をそこで抜き取り、目減りした紙幣を渡されていたというわけです。

猛然と両替商に戻りました。

バン! と扉を開け、鉄格子の奥に向かって「カネ返せ!」と叫びます。

お姉さんは不思議そうな顔をして「どうしたの?」と白々しい演技。

「あなたオカネ抜いたでしょう、返しなさい」
「なにを言っているの、もう一度数えてみて?」
「ふざけるな、返せ!」

押し問答です。叫んでも駄目だと思い、今度は情に訴える作戦です。

「あのオカネがないと、私、国に帰れないの。家族が待っているの。お願い、返して」
「ねえあなた分かるでしょう、こんな遠い異国で私とっても心細い」

お姉さんみごとに無視。剥げたネイルに息なんて吹きかけています。また頭に血が上る私。爆発モードに転換です。

「返せって言ってるでしょう、オラ、返せ!」

カウンターをバンバン叩き、鉄格子をガンガンゆする。お姉さん、どこかに電話、今度はやけに騒がしいオバサンが入ってきました。

「ちょっとアンタ、おかしないちゃもんつけないでくれる? さあ、帰った帰った、もうおしまいだよっ!」

私だってさっさと出たいけど、オカネがないと本気で帰れません。これ以上誰も入ってこないようにドアの鍵をかけ、扉の前に座り込みです。

「ロシアなんて来るんじゃなかった。義理も人情もない。外国人の女の子からオカネを巻き上げて平気な顔をしているなんて、酷い人たちね……」

今度は泣き落としです。嘘みたいに涙が出ます。女の涙はいつでも出せるのです。

思いのほかしぶとい私と、完全に密室になってしまったことで少々困ったのか、なにか相談しているお姉さんとオバサン。

鞄からロンリープラネット(英語版の「地球の歩き方」のようなガイドブック)を取り出し、パラパラとめくっていたら、モスクワのページに「Tourist Police」の文字が。ロシア警察の外国人向けホットラインの番号が書いてあります。

携帯電話を出し、その番号にかけます。ローミングによる通話は当時1分間500円という高額でしたがこの際背に腹は変えられません。お姉さんとオバサンがハッと息を飲むのが分かりました。武器を持っているようには見えないし、外の銃を持った警備員さえ入ってこなければもみ合いになっても互角なはず(喧嘩は強いほう)。

はたして「ハロー」という応答が! 「あのー、私いま両替屋にいるんですけど、オカネを誤魔化されてしまって、とっても困っていて。場所ですか、クレムリン近くのですね」

お姉さんが「わかった! ほら!」

カウンターにお札を投げてよこします。その札を引っ掴み、念のため数えて財布にしまい、鍵を外し扉を開けて振り返り、静かに言いました。

「ハラショー(素晴らしい)」

お姉さんとオバサンはキョトンとしています。お馴染みの銃を持った警備員、宝飾店のルートを抜けながら私は「ちっくしょう!」と呟いていました。ほんとうは「スパシーバ(ありがとう)」と嫌味を言いたかったのです。

あのね、間違えたの、ロシア語。何がどう「ハラショー」だったというのでしょう。謎です。オカネ返してもらったから、まあ、いいか。良い子の皆さんは真似しないでね、危ないから。

列車旅の準備

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さてようやくオカネも取り戻し、シベリア鉄道の切符もゲット。1週間乗りっぱなしの列車の旅です。食料をいろいろ買い込みましたよ。クラッカー、ビスケット、チーズ、ハム、ピクルスの缶詰などなど。

さてモスクワは建物のなかが見えるつくりになっている商業施設があまりなく、素通りしそうな無味乾燥な建物の看板の文字を読んでようやく中にレストランや食堂があることが分かるという感じ。

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やっとのことで、ロシアで初の食事。セルフサービスのフードコートのようなところ。ビーツのピンク色のドレッシングとボルシチに「これぞロシア!」とやっとテンションが上がってきます。

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シベリア鉄道へ乗車

モスクワ駅です。立派ね(愛のない感想だ)。

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私の車両はこちら。"Россия"はそのまま『ロシーヤ』。せっかく読めてもあんまり面白くないのはインド諸語と同じ。ヒンディー語の文字を覚えたてで嬉しくて街中の看板を頑張って読んだら「インターネット・センター」だったりね。

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何両編成なのでしょう、車両はとても長く、ホームの端から端までめいっぱいという感じ。

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私の寝台はこちら。寝台4つでひとつのコンパートメントとなっており、ほかの3つの寝台は、夫婦と5歳くらいの男の子の家族連れでした。

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車両には飲食用の給湯器があって、いつでも熱々のお湯が供給されています。ただしこの等級の車両にはシャワーはないのでウラジオストクに着くころにはどうなっているやら。

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ロンドンからモスクワまではあっという間という気がしましたが、シベリア鉄道は1週間です。9297km。長い!

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なんにもない!

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暇なので食堂車へ。お食事はお値段のわりに、えーと。

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暇すぎて用もなく食堂車に行っていました。

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楽しみは停車駅での食料調達。地元のオバチャンたちが手作り感いっぱいの美味しいお惣菜を売りにきていました。こういうの嬉しいですね。

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だんだん寒々しくなっていく車窓。

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一番感動したのはイクラです。深夜に停まった駅で暗闇の中、売っていました。白いご飯がほしかったです……。

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寒そ……。

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私の5語しか知らないロシア語では、周囲の人たちとの身振り手振り入りの渾身の会話はほぼ半日でネタ切れです。あまりに暇を持て余していたら、愛想のない感じの強面の車掌さんが「あっちの車両に外国人がいたよ」と教えてくれました(いろいろ気を遣ってくださるとても優しい人でした)。

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10両ほど歩いて探検しにいったらノルウェー人男性ふたり組が。やっと英語が通じる人に会えて、めちゃくちゃ仲良くなりました。なにを話したか忘れましたけど。

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日本に帰ったら、なにをしよう。せっかく取ったし、日本語教師の資格を生かして働けたらいいな。そんなことをぼんやり考えながら眺める車窓は相変わらずずっとなにもない。

何年も前から知っている年下の男の子がいました。ロンドン滞在の終盤、アメリカに出すメールの英文を添削してほしいと連絡してきて、つい本気で直して真っ赤にして返し、毎日やりとりをして、彼がやっていること、これからやろうとしていることを問わず語りに聞き、私はいたく感動していました。

男性にはもうあまりなにも期待はしていない。乙女というには汚れてしまったし、もうヒリヒリするような恋はしたくない。誰からも自分の世界を壊されないように守って、そして生きて行こう。

振り返ったら奴がいた。そんな感じで圏外からポッと浮上した、私の世界に抵触してこなさそうな人。帰国したらその人と付き合うのかな、おそらくね。

シベリア鉄道で一番驚いたのは、同じ列車に乗っているうちに、1時間、また1時間と次々と時差が日本に近づいていったことです。東西に長いロシアでは同じ国の中でも時差があるのでした。

ウラジオストク

「用事がなければどこへも行ってはいけないと云ふわけはない。なんにも用事はないけれど、汽車に乗って大阪に行って来やうと思ふ」

内田百間の随筆『特別阿房列車』の一文だそうです。これを読んだのは、旅漫画家・グレゴリ青山さんの『旅で会いましょう』(メディアファクトリー刊)。この一文に触発されて「なんにも用事はないけれど」と青山さんが富山県の伏木港からウラジオストクに船旅をした話をなんとなく覚えていました。

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日本の中古車が日本語の塗装もそのままに走っていて、一瞬「あれここどこだっけ」と思うのはアフリカと同じ。

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貨客船で日本へ

日本の中古車がバンバン走っていることからも分かるように、ウラジオストクには日本から中古車を運搬する定期貨客船が週に一便就航していました(2020年現在はもうありません)。

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この船にはチラホラと旅行者も紛れていると聞いていました。2泊3日の船旅です。食事つきで片道1万5千円という破格!

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私の船室はこんな感じのふたり部屋。乗船してまずしたのはシャワーを浴びることです(笑)。同室になったのはカナダとオランダの二重国籍の女性。

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食事の時間になると英語でアナウンスが入ります。レストランに行ってみたら、シベリア鉄道のノルウェー人ふたり組をはじめ同じ鉄道でウラジオストクに着いたらしい外国人が数名いました。

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食事は意外にもスープから始まるコースでしたよ。すっごく美味しいかと言われればそうでもないのですが、久しぶりの温かい食事は嬉しかったな。

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グラングラン揺れる船上でウォッカを一気飲みしてプールに飛び込むクレイジーなロシア人たちを眺めて和む私たち。

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ノルウェー人男子、いつの間にか水着に着替えて自分も泳いでいました。どこにでもいますね、こういう小学生みたいな男子。

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いよいよ日本が近づいてきました。

船内では食事のときだけ英語のアナウンスが流れ、そのほかのときは10分おきくらいにロシア語のアナウンスが流れます。暇を持て余していた私たちは「ねえ、あれはロシア人にだけ提供されている特別なおやつがあるとか、そういうアナウンスじゃないのかな、ずるくない?」などというくだらない会話を交わしていました。

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実はそのアナウンスは、日本の入国管理官が乗船してロシア人の皆さんの入国手続きをするのに呼び出していただけでありました。列車旅と船旅で食べもののことばかり考えるのはわりと世界共通かもしれません。

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入港したのは富山県伏木港。「禁煙」と大きく書かれた壁の前でくわえタバコのお父さんを見つけてとても和みました。

さてこの伏木港、観光とは縁遠い港です。両替所もATMもありません。公共交通機関もありません。さてどうしようかと考えていた私たちに軽トラックのお父さんが声をかけてくれました。氷見駅まで送ってくださると。いいのかな、軽トラックの荷台に人が乗って。まあいいか。

私はなぜか助手席に乗せられ、お父さんが「ロシア人は美人が多いんだよ、この子たちも乗せてあげたんだ」と嬉しそうに差し出してきた美女満載のアルバムを眺めているうちに駅に着きました。お父さんありがとうね。

郵便局のATMはすごい! みな日本円をゲット、私もわずかに残っていたユーロをノルウェー人に日本円と交換してもらい、無事、新幹線へ。ここまでケチっていたのに最後は新幹線という豪遊!

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つい地べたに座り込むのは旅行者の常ですね。東京までまたワイワイガヤガヤと騒がしく、やっと日本に帰ったのにまだ実感が湧かない私でした。

地球は繋がっている。約3週間の帰国の旅でした。知らない間にインドも中国も爆走していたのね。2006年9月末。


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