見出し画像

設計図を大きく:写真の部屋

写真を撮るのとデザインする脳は、似ているところと違うところがある。似ているのは「構築」という部分で、具体的に言えば配置する感覚。だから最低限デザインを学んでいる人は最低限の写真は撮れると思うし、反対に言うとデザインを学んでいない人の写真を見るのは厳しい。

デザイン的、という言葉は写真においては褒め言葉ではなく、俺が撮り始めた頃にも「デザイナーが撮った写真だね」と言われたものだ。完全に貶している。我々アートディレクターは、仕事が発生するとどんな写真をどうレイアウトするか、着地点をロジカルに決定していく。どんな方向から何を言われても、「こういう意図があるのでこうしています」と答えられる準備をしている。

しかしそこが「写真」という単独の表現になったときはマイナスに働くから恐ろしい。こう見てもらいたかったからこう撮ったんですよね、と言われるほど恥ずかしいことはないのだ。心が透けて見える。さらに絵になる構図が作れるモノだから、破綻がない。破綻させたりユルませる能力がないのだ。いい具材を見せたいからローストビーフと豚カツと海老フライとステーキが入った幕の内弁当みたいなものを作ってしまう。そんな弁当は暑苦しい。じゃあどうするか。

デザイナーが撮りそうな写真

写真はそこにあるものをただ写すんだけど、その前に撮るか撮らないかの選択がある。撮らないで無視して通り過ぎてもいいし、立ち止まり、とってもいい写真を撮ってもいい。撮ると決めたら、どんな距離感で何ミリのレンズで絞りは、シャッタースピードは、と無限とも思える選択を強いられる。撮ったら今度は「セレクト」という名の選択だ。同じ意味だけど。

ここから先は

506字

写真の部屋

¥500 / 月

人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。