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撮るチカラと選ぶチカラ:写真の部屋

コピーライターである仲畑貴志さんが書かれていた言葉は、数十年経ってもいくつも思い出せる。単にコピーライティングだけではなく、考え方や、もっと言えば「生き方」にも関係していたからだと思う。

俺はデザインをしていたけど、コピーライターから渡されるコピーがいつもすごく気になった。デザイナーの中には、「ここに入るテキスト」としか思っていなかった人もいたが、俺はなぜこのコピーになるのかが納得できるまで、しつこく口を出した。

先輩のコピーライターを質問攻めにしていたとき、手に持っていたボールペンを漫画のようにへし折って、「だったらてめえが書けよ」と言い、怒って会議室から帰られてしまったことがある。

静まりかえる会議室。隣には、当時俺のアシスタントだった平林監督がいた。平林監督は何よりも「場がモメること」が嫌いな性格なので、俺たちの大人げなさをたしなめられるかと思って顔を見ると、悲しそうに、「あれ、僕のボールペンです」と言った。

まあ、そういう血気盛んな時期というのは誰にでもあるもので、幼稚で申し訳なかったとは思うが、反省はしていない。納得がいかないものを認めないというのは、常磐線で言う、最後の砦なのだ。

だから上司であった秋山晶さんは言うに及ばず、糸井重里さんら大先輩のコピーについての考え方は、かなり勉強になった。

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それが写真を撮る今でも役に立っている。

たとえば仲畑さんは、「コピーが書けることと、選べることは違う」と書いていた。若いコピーライターに書かせたコピーがどれもよくない。ゴミ箱に捨てたモノも全部持って来いというと、その中にいいコピーが見つかることがある、というのだ。

これは写真で言えば、「撮影とセレクトの関係」に完璧に置き換えられる。撮るチカラと同時に、選ぶチカラの大切さ。たとえまぐれでもいい、最終的に選ぶ一枚がよければ、いい写真が撮れたことに他ならないからだ。自分が作ったモノの正確な意味と価値がわかるようにならないと、それは作れたことにならない。

俺は広告に、というか、広告を取り巻く環境に興味を失ってしまったので、今は自分が手がける「ブランディングの一部」として広告メニューが存在する場合に限ってやっている。特に写真は独立したパーツだから、ポスター用に撮った写真が書籍の表紙になるなど、別の用途に使われることの自由な面白さも感じている。

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なぜ広告に興味がなくなったか。広告を学んだ人間として、ここから先を有料にするテクニックに恥ずかしさもあるんだけど、それをギャグとして使っているからストレスはない。現職がやると、あざとくなるけどな。

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写真の部屋

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人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。