詩人になりたかった。
お恥ずかしい話ですが、若いある時期に詩集ばかり読んでいたことがあります。ヴェルレーヌ、ボードレール、ランボーといったベタなところですが、詩人として生きていけたら最高だなと思っていました。この顔で。でも当時はこんな反社じみた顔をしていませんでしたからね。
今回『カメラは、撮る人を写しているんだ。』を書いているとき、その頃のことをふと思い出しました。私は詩を書きたかったんだよな、と。何かを伝えるとき、「どんなことも詩の体裁をとることができる」と信じています。政治に文句を言うときも、上司の悪口を言うときも、食べたモノがおいしかったときにも。言葉をすべて詩にすることは可能なのです。
最近はあまりないですが、日常のささいなことを誰かがネットに書いたとき、「詩だ」とリプライをすることがありました。詩を書こうとしているわけでなくても、それらは詩に見えているのです。お母さんに作ってもらったお弁当が美味しかったとか、犬が昼寝をしていて自分も隣で寝たとか、そういうことでいいのです。
反対に、ポエティックに書こうとしている文章のほとんどが詩ではありません。カタチを真似しているだけで、居酒屋のトイレに貼ってある親父の小言と同じようなものです。
写真の話を書いたとしても、そこに詩を紛れ込ませることはできる。そう信じて書きました。私が写真の本を書いたと言うと「写真集ですね」と言われることがあるのですが、その誤解はもっともです。写真家が写真の話を小説仕立てで書くことは多くないですし、さらにそこに詩が紛れ込んでいるとは想像するはずがありません。前回はオヤジギャグの間に哲学のブイヨン・キューブみたいなものを溶かしておきましたが、今回は小説のように見える詩です。
多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。