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ナガオカケンメイ:写真の部屋(無料記事)

ナガオカケンメイは、私が名前を呼び捨てにされる数少ない友人です。会った最初の瞬間から「アニ」と呼ばれたので、ゲせないと思ってあとで調べたら私の方が年上でした。ですから普段、私は年下が相手でも呼び捨てにはしないのですが大人げなく「ケンメイ」と呼んでいます。

ケンメイは切羽詰まった仕事のときに私に連絡してくるので、「明後日、撮影できるかな」みたいなタイムスケジュールが多いです。おそらく何人かに断られたのだと推理していますが、最終的に私のことを思い出してくれるのはとてもうれしいと思っています。

人物の写真を撮るときは、トンネルをイメージしています。カメラの前にいるモデルと自分の間にチューブ状のものが存在している感じ。ビームでもないし、レールでもない。その場の空気を囲んだ管の両端にお互いが入っている感覚があるのです。広告などで周囲に人が何十人もいる場合、このチューブが破れることがあります。外から「もう少し笑顔のものも欲しいです」などと言われるのですが、それはわかっているので完膚なきまでに無視します。こちらには想定した撮る順番がありますし、互いの微妙な心理状態が一番わかるのは、このチューブの中にいるふたりだけなのです。

人間の顔は毎日変化していますが、2023年の8月3日のケンメイの顔がこれです。「ただ何もしていない、という撮り方は簡単だ」と書いている写真家がいました。それはある意味では正解なのですが、だからといって特別なアクションや派手なギミックを使うのが解決だとも思っていません。すべては必然性なので、プロフィールに使うポートレートなどは何か芸をしているものほど「寒く」見えてしまいます。

アメリカの警察で撮られる容疑者の写真がありますね。あれなどは私が考える理想かもしれません。犯罪を犯して逮捕され、名前のボードを持たされて撮られるあれを面白がってはいけないのですが、切なさとか落胆とか厭世の表情が感じられて、いいんですよね。

ポートレートは、魅力のある人が自分のカメラの前に立ってくれる、それで仕事の9割5分は終わっています。あとは警察署のカメラマンみたいに撮ればいいんです。そこで何かのギミックを足したいのだとしたら、何もしていない価値を大きく上回る効果が出せないと失敗になります。

先日、ある仕事で撮影した人から、自分のプロフィールに使いたいのでアウトテイクが欲しいと言われました。これがとてもうれしいのは、仕事という目的を達成しただけではなく「そこにパーソナルな自分が写っている」と感じてもらえたことです。そういう仕事をしていきたいですし、これが仕事、これが作品、と分けるのではなく、毎日撮っている仕事を並べただけで写真集ができるくらいガチガチの緊張感でやっていきたい所存です。


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人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。