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Youtubeの未来。

2013年、キングコングが「Youtubeチャンネルを始める」と言った時から、遠巻きに参加させていただいている。最初は割と丁寧な企画があったからそのアイデアを一緒に考えたりしていたんだけど、最近はカタチを変えて、できるだけ二人でフリーに話す方式になっている。収録に行っても「面白いな」と思いながら、現場ではリンクを貼るための写真を撮っているだけだ。

Youtubeが作り出した世界は、テレビへのカウンターという意味が大きかった。著作権無視、映像も音声もメチャクチャで、素人学生がバラエティ番組の安っぽいパロディを近所の公園でやっている、といったムードだった。

それが認知された職業になって「もしかして、テレビよりも自分たちが見たいモノを提供してないか」と気づく人が増えてきた。

どんな出来事においても重要なサンプルは「子供が反応するか」で、大人は従来あったモノとの比較でしか話さないから反応が鈍い。子供たちが見ているアレはなんなのだ。流行っているのかと、かなり遅れて大人は気づく。

今日から梶原さんは「カジサック」というキャラクターでYoutubeデビューをするんだけど、それを始めようとしたきっかけやロジックは新しいテレビ論でもあり、お笑い論でもメディア論でもあり、とても納得できるモノだった。梶原さんが家庭で子供が見ているYoutubeに気づけたことも大きいように思う。

テレビが時代の変化に対応できなかった部分を、軽々とYoutubeは乗り越えて見せた。荒削りなところは独自にどんどん洗練されていき、すでにテレビのカウンターという存在ではなくなっている。

それと対照的なのはAmazonなどの「テレビの人がネット配信番組を作る」ときの意識の遅れ。ネット番組をテレビではできない悪ふざけが楽しめる場所である、としか認識できていない点が見受けられる。

前にも「自習の時に騒ぐタイプ」と書いたけど、授業中は教室にいなければならないという保守的な約束を守りながら先生がいないから遊んでいる、というのがネット番組から感じられることがある。ネット仕事以外の時間には優等生としてテレビの番組も作り続けているんだから。

Youtuberたちが最初から学校にも属さず「教室」という概念すら持っていないのとは大違いだ。だから極端に暴力的だったり下品だったりするんだけど、今はチャンネル登録者がその加減を評価するから、コメントは辛辣だ。

「ウケだけ狙って下品」「アクセスを増やそうとしているのが見え見え」などとリアルタイムで厳しく断罪される。そうされながら作っている。

ここでも萩本欽一さんの慧眼に驚くんだけど、Youtuberで人気がある人はどこか中性的な人が多い。欽ちゃんは「お茶の間でポピュラーな人気を獲得するためには男らしさを出さない方がいい」とずっと昔から言っていた。長江健二さんや見栄晴さんにマッチョさは感じない。

いくら下品で目立つことをしようとも、その感覚は選別・淘汰で結果が出る。今回のカジサックのロジックでは、テレビとYoutubeの表現の歴史やテクニックも説明されていて興味深い。長い間テレビで仕事をして来た人の、テレビを否定せずに乗り込んでいく説得力がある。

https://www.youtube.com/watch?v=gXs8lubW0v8

今回の「毎週キングコング」はとてもためになると思う。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。