見出し画像

音楽と写真:写真の部屋(無料記事)

ぼくが写真で心がけていることは、理解よりもずっと手前の、
そのひとがただそこにいることのなんでもなさが
どれだけ劇的に見えるか、を。
そう見えるようにいられるために、いつも、考えています。

見逃していた『うたのはじまり』を配信の最終日に観た。

俺にとっては尊敬するひとりの写真家の生き方を見ることができてうれしかった。最初に引用したのは映画の中でチャットをしている齋藤陽道さんの言葉だ。俺は今までずっと言葉を尽くして写真について書いてきたけど、「この短い言葉で全部言われた」と思って、悔しい。

陽道さんが話す言葉はとても正確で、間違った表現をしない。映画の中でも筆談中に書きかけた文字を何度も消し、本当の言葉を書こうとしている場面が出てくる。

「そのひとがただそこにいることの
なんでもなさが
どれだけ劇的に見えるか」

これがずっと俺が写真について抱いていたことの答えかもしれない。
俺が陽道さんの写真をいいなと思ったとき、どうしてこんなに嘘のない写真が撮れるのだろうかと感じたことを思い出す。写真とはこういうことなんだよなとわかったし、自分にはまだまだそんな写真が撮れそうにないことも痛感させられた。

誰かにカメラを向けてシャッターを押して写すのは「コピー機」がやっていることと同じだからだ。

後半に旅人さんも出てくる。俺が旅人さんの歌を初めて聴いたときに感じた印象と陽道さんの写真に感じたことはとてもよく似ていて、安っぽい表現をしてしまうと「慈悲」のような感情を受け取れる。人がそこにあることへの祝福。

スクリーンショット-2020-10-31-22.43.58

陽道さんがライブ会場で旅人さんの歌を聴いている人たちを「笑っている人もいれば、泣いている人もいる。宇宙のようだ」というシーンがある。「音楽は与えたり、与えられたりする、心の栄養のようなもの」という音楽家の藤本さんの言葉にもうなづけた。会うべき人々が会っている。

俺が人を撮るときはいつも「劇的」に撮りたいと思っている。ただしそのドラマチックさとは、ジャンプしていたり、ゴテゴテした舞台装置があったり、激しく泣いたり笑ったりしているのとは違う。その場にその人がただ存在していることの尊さ、そこで俺がカメラを構えていられるありがたさを写したい。それが陽道さんの場合、樹くんが生まれてきたことで、より鮮明に輪郭を描けたのではないかと思う。恥ずかしい話だけど、樹くんが生まれてきた瞬間、俺は我慢しきれずにぼたぼたと涙を流していたんだけど、画面の中の陽道さんは冷静に写真を撮っていた。

写真にはレトリックもこけおどしも何もいらない。それでいいんだと、もう一度気づかせてくれたことに感謝です。陽道さん。旅人さん。


ここから先は

0字

写真の部屋

¥500 / 月

人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。