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何が撮りたいのか:写真の部屋

先日、平林監督がnoteで書いていた「狭い価値観の中でしか機能しないクオリティ像」という問題提起が、何かとても大きなヒントになりそうだと感じています。写真を撮るときはシャッターを押すたびにその問題に直面するからです。私はアートディレクターでもあるので目的に向かって行く写真は苦もなく撮ることができます。「6.5mmのネジを2000本ですね、来週までに納品します」という熟練工場長の感じでいけるのです。もちろん納品されたネジに不良品は許されず、完璧な品質でないといけませんが。

それとは別の、自分でも説明しにくい衝動から生まれた写真、目的のない写真を撮るときの話です。皮肉なことにプロフェッショナルな工場長というのは、熟練していくほど『発注書のないネジ』が作れなくなっていくのです。いや、作るべきものはもはや『ネジ』じゃないかもしれません。写真が怖いのはそこで、同じようにシャッターを押すだけなのに、できあがったものそれぞれがまったく違う意味を持ってしまうのです。

ヨセミテ渓谷などは世界中から訪れた写真家や観光客が毎日撮影していて、アンセル・アダムスと同じ構図の写真が過去に何億枚撮られたかわかりません。1940年代と比較すると現在の写真家(アマチュアでさえ)はアンセル・アダムスより高性能なカメラを使っているはずですが、あの一枚を超える写真は誰も撮ることはできないでしょう。

さあ、やる気が失せてきましたね。でも大事なのはここからですよ。

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写真の部屋

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人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。