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芥川賞は『文藝春秋』で読むべし(後編)

この記事の前半部はこちらです。


★芥川賞の選評を読んでいく★

★1~山田詠美さん

選評の並びのトップバッターはだいたい山田詠美さんですよね。


山田さんは毎回毎回、啖呵を切るのがうまい!
バッサバッサと、候補作を斬り、文壇を斬り、世相を斬る。

今回は、候補作の作者が5人全員女性ということが話題になって、そこでマスコミがどよめきたっていたが、山田さんにしてみるとそれは気に食わなかったらしい。わからなくもない。
それをこんな言葉でズバリと斬り捨てます。

ジェンダーフリーとか、多様性とか、女性の社会進出とかと結び付けて、お手軽にアップ・トゥ・デイト感を出そうとしたのだろうが、小説家の感じ取る世相は作者個人のもの。今回の女性候補者たちは「男女機会均等枠」で選ばれたのではなく、小説作品の質が高いから最終的に残ったのである。小説の出来に「均等」なんてないよ!そこ、ヨロシク。(p270)

選評の順番をどう決めるのかわかりませんんが、トップバッターをつとめることが多い山田さんだけに、芥川賞選考委員の看板しょってるみたいに見事に、今回の下世話な文芸ニュースを切り捨てましたね。

山田さんは選評文の別の箇所でも、候補作の各作品を評して「小説における洗練とは野蛮さに磨きをかけることだ」とか、「少しだけエッセイ漫画的既視感があるのが残念」とか、決め台詞を繰り出しながらスパスパ斬っていくのが気持ちいいですね。

ちなみにこの「エッセイ漫画的で残念」ってのは、今回受賞作の『おいしいごはんが食べられますように』のことです。
つまり受賞させたけど、全肯定じゃないんですよね。
チクリとひと言、言っている。

だから、これなんですよね、受賞作が盤石の勢いで受賞したわけじゃないってのは。

さて次、行きましょう。


★2~島田雅彦さん

さて2番バッターは島田雅彦さん。

島田さんは山田さんとは趣をがらりと変えて、一作一作のあらすじや特徴をコンパクトにまとめて畳み込む。
そして受賞作『おいしい~』を評して、こう言っています。

人物設定を意図的に類型化しているのだが、可愛くて料理上手の、いわば特性のない女が総取りするという脱力の結末に向かう行程を面白がるか、首を傾げるかで評価は分かれた。(p272)

「評価は分かれた」って言って、じゃあ、島田さんはどっちだったの?と言えば、わざわざそんな苦言を書きつけているんだから、受賞作に対して「首を傾げた」側なんですよね。

つまり、今回は島田さん的には不本意な作品が受賞しましたよと、世間のひとが読むこの文章で、あえて言ってるわけです。
こんな正直な選評ってないですよね、島田さんに限らず。

じゃあ島田さんはどれを推してたの?ってことで、選評の後半部へ行くと候補作『N/A』の特徴を淡々としながら・でも力説していて、つまり『わたし・島田は、これを推してました』って立場表明をしているわけです。

面白くないですか?
こんな赤裸々な選評って、日本に他に何があるでしょうか?

さて、次です。


★3~小川洋子さん

小川さんはもうストレート。
自分が推していた候補作『家庭用安心坑夫』について選評の前半半分をつかって、こと細かくその魅力を縷々綴って『こんなに面白しかったのに!なんでダメなの?』と言わんばかりに紹介して、その挙句、

受賞作に推しきれなかったのが、残念でならない。(p273)

結果にまだ納得していないようです。
自分の思うとおりにいかなかったって、ごねているかのようです。

で、選評の後半を使って事務的に残りの候補作4作の感想を片づけていく。
分かりやすいですね。

次、行きますね。


★4~松浦寿輝さん

松浦さんは島田さんみたいに、各作品になるべく等分になるよう紹介していく。
島田さんは第三者に作品を紹介してる感じ、と言うとすれば、松浦さんはむしろ分析的に候補作を読んでいる。学者でもありますからね。

松浦さんは『おいしい~』ともう1作品『ギフテッド』を推していたと書きます。
実際、両作品の『分析』はニュートラルな分析じゃなくて、ちょっと『官能的』な筆さばきで紹介していますね。

ためしに、選ばれなかった方の『ギフテッド』の《官能的分析の記述》を引用してみましょう。

端正かつ的確、音楽的な流動感もある文章で、知的な自意識を虚無的な諦念に溶かしこみつつ生きている一女性の行動を追ってゆく。心理を、描写するのでなくアクションの連鎖に語らせていくハードボイルドな書きぶりは堂に入ったものである。「ドア」の開け閉めのテーマで全体を縫い取ってゆく趣向も洒落ている。(p274)

まるで惚れた女性の輪郭をなぞって描いたみたいじゃないですか。だから『官能的』なんですけど。

で、選評の締めくくりに「『ギフテッド』の同時受賞も……という可能性が浮上すれば積極的に支持するつもりでいたが、そうならなかったのは残念である。」

これをいまさら言ったところで何なの?と思われるひともいるかもしれませんが、選考のプロセスに不満があったから、これを言ってるわけじゃないんですよね。

じゃあ、なんでこのひと言を最後に書きつけたかって言うと、「俺は応援してるから、次、諦めんなよ」って『ギフテッド』の作者に、誌面上でエールを送ってるんですよね。

こういう私的なエールを、雑誌で公表される文章を使って言う。
これがアリな世界なんですね、文学って。
人間臭いと言えば、人間臭い。
ここに文學健在、って感じでしょうか。


★5~吉田修一さん

吉田さんの選評はこれと言って特色がないんですよね、今回。
というのは、たまたまなんでしょうけれど、吉田さんが事前にこの作品を推して、この作品は推さない、って決めて選考会に臨んだら、そのとおりに事が進んでしまったからだと思うんです。

だから選評を書く段になると、落選した作品には思ったとおりのことを書くだけだし、受賞した作品も思ったとおりに書くしかなくって、選評のなかに『異論』が入る理由が今回なかったということなんでしょう。

実際、受賞作『おいしい~』については長く書き連ねて褒めているんですが、なんか予定調和な選評を読んでいるような手応えなんですね。

でも今回、たまたまそうなっただけで。
だから予想通りに選考が進むと、選評がこうも味気なくなっちゃうんだって。
そういう意味では不思議な読み心地になる、面白い選評ではありますね。

次、行きましょう。


★6~平野啓一郎さん

選考委員としては新世代を代表する平野さんです。

選評も、島田さんや松浦さんとはまた違ったタイプの分析眼。
『クレバー』とでも言うべき切れ味で作品を切っていく。

でもそれは前半部だけなんですよね。小川洋子さんも推してた『家庭用安心坑夫』を推していたんだ、ってことを文章の後半で詳しく説明していく。

最後はこう締めくくっています。

(『家庭用安心坑夫』は)文体は未成熟であり、構成もぎこちない。しかし、全候補作を読み終えてからも、私はこの小説のことが気になって仕方がなく、別の作品を推すつもりだったが、最終的に考えを変えた。次作に期待する。(p276)

他の作品にはクレバーに処理できるけど、クレバーでは処理しきれないものへのためらいが『推し』へとつながる。

自分の感性・理性を意外な形で凌駕する作品にほれ込んでしまうタイプなのでしょうかね、平野さんという作家は。

平野さんが三島由紀夫を敬愛するのも、自分の素質と異質で、かつ自分を凌駕する存在だからこそ、終生の憧れの対象なのかも知れません。

平野さんは『クレバーでありつつ、自分の弱さに誠実である文学者』という姿が透けて見えそうですね。

さて次、行きましょう。


★7~奥泉光さん

奥泉さんもクールに分析するタイプでしょうか?
いや、むしろ『手堅い』と言った方がいいような、『玄人っぽさ』を出した読みで、各作品をバランスよく評価しつつ、プラス面とマイナス面をきちっと押さえて各作品をつかまえていますね。

奥泉さんの選評が今回、いかにも芥川賞っぽいのは、選考の過程をばらしちゃうところですよね。
引用しましょう。

今回の候補作はそれぞれに読みどころがあり、甲乙つけるのが難しいと思われ、実際、最初の投票では票がばらけて、しかしなかで高瀬隼子『おいしいごはんが食べられますように』が比較的に高評価を得、自分もこの作品を推した。(p277)

これですね。
『選考会の様子を外にばらす』のは奥泉さんの専売特許でなくて、毎回誰かしらがこういうこと書くんですよね。

それを公言しちゃうところが、お役人の会議と違うところ。
この引用箇所を読んで「な~んだ、そんな感じで受賞作、決まっちゃったんだあ」と思ったひともいるんじゃないでしょうか?

ここだけ読むと、会議の流れで結果はこうなっちゃいました、みたいな『なし崩し』的なイメージもあるんですけれど、でもそれを『あえて・言っちゃう』ってのが、いかにも『文学的』な振る舞いですよね。

お役人なりお偉いさんだったら、会議の様子がこうだったなんて絶対言わないでしょうね。誰に責められるかわからないし、自身の出処進退が関わりかねないですから。

でも文学者には出処進退なんて関係ないから、「選ぶって所詮、そんなものでしょ」って言えちゃうあたりが、いまどきにして文学者的に『無頼』ですよね。

ブラックボックス化しないのが芥川賞選考会のいい意味で、非=日本的にKYですよね。

じゃ、次行きましょう。


★8~川上弘美さん

川上さんは選評文ののっけから「今回は、二つの作品に〇をつけました」と言います。
1つめの〇が『おいしい~』で、2つめの〇が『N/A』で、それぞれの〇だった理由を書いていきます。

ここまで総計7人分の選考委員の言葉を読んできたうえで、川上さんの言葉を読んでいくと、その『素朴な言葉づかい』に驚かされます。

誤解を承知でわかりやすく言ってしまえば、他の選考委員は『分析なり理詰め』の言葉で判断・説明しようとするのに対し、川上さんは『感覚派』とでも言うべき手触りで候補作を読もうとしているようです。

別の言い方をすれば、他のひとがすぱっと作品を斬って、その断面・斬り口を確かめてるようだとすれば、川上さんはそうでなく、両の掌に作品をころがしてみて、その感触を確かめている感じ。
こんな言い方したら川上さんに怒られるかな?

川上さんがそうやって選びとった言葉を具体的に、いくつか引用してみましょう。


ほんとにもう、おそらく読者全員をいらいらさせる存在。

たぶん、この小説の中の人たちは、生きているのです。

語り手以外の人たちの描きようがていねいなのと、文章のすみずみまで、作者が気をゆるめず目をゆきとどかせているからだと思います。

△をつけましたが、〇にとても近かった。

『家庭用安心坑夫』は「がんばって書いた。うん、よくやった」と思わせてしまったのが、残念。



こうやって書き出し見ると、あえてこういう『言葉づかいで・貫く』ってのもすごいことだと思います。

川上さんはこういう『言葉づかい』を選びとって『文学の世界』に入って来たわけであって、だから『作者』であろうと『選者』であろうと、その『言葉づかい』を決して崩さない。

他の選考委員のような『分析の言葉』を、だから決して使わない。
川上さんは、自分のこういう『言葉づかい』をしてこそ展開できる『認識の世界』で勝負しているという『覚悟』すら感じられる。

そして、やわらかい印象の言葉づかいを支える『強さ』が根底にあるのだと思います。
『やわな』作家なら、並みいる選考委員の言葉の鋭さにびびって、自分も負けまいとして、あわてて『分析の言葉』にすがりついてしまうかも知れない。

でも川上さんはそうしなかった。そしてそれをし続けている。
ある意味、選考委員の並みいる言葉のなかで一番異質な輝きを発しているかもしれない。
そしてそれは『やわらかく』とも、決して『やわ』ではない、川上さんの『すごみ』かもしれないですね。

ちょっと褒めすぎか。
次、行きましょう。最後です。


★9~堀江敏幸さん

他の選考委員もたまにやることなのだけれど、今回の堀江さんは選評自体を『自分の作品』として仕立てあげてしまってますね。
堀江さんのエッセイを読まされているようで、選考のための文章とは思えない味わい。

今回の堀江さんの『趣向』は、候補作の作品同士を並べてみて、隣り合った作品同士が思わぬ共通項を持っていることに着目してみます。

たとえば作品Aと作品Bの間には「息を吸い・吐く力」をみつめてくっつけて考察している。
また別の作品同士では、「沈黙」という別の共通項を見つけて、作品Bと作品Cをつなげる。

まるで堀江さんは候補作という『珠』をつなぎあわせてネックレスをつくり、そのユニークな造形に驚いた顔をしているかのようです。
でもその中のどれが好きかというと、その答えはないことを伝えるかのように、静かに黙って珠の連なりを眺めているかのようにも、堀江さんの選評文は読めます。

これは選評なのだろうか?と問われれば、わたしも答えに詰まってしまいますが、いま日本に生存する稀代の名文家が選んだスタイルなのです。これもまた選評なのでしょう。


★終わりに

いかがでしたでしょうか?
選考委員がぞれぞれ確固とした個性を持ち寄って、芥川賞の受賞作を決めた、その理由も、その心境も、選者それぞれの個性が鋭く打ち出された文章として提示されていた様子が伝わったでしょうか。

こういう風にして、芥川賞の選考会が、半年に一度行われるわけです。
そしてその選考会は、毎回毎回が予想のつかない、熾烈な討論が繰り広げられているわけです。
今回笑った選者も次回はどうなるかわからないですし、その逆もしかりです。

毎回毎回様相の異なるドラマを経て、受賞作が決められていく。
そしてその翌月には、選考の過程を振り返って、9人の選考委員=作家がそれぞれ独自の文章で披露しつつ、ときになで斬り、ときに哀感をにじませ、ときに高揚して、読む者に文学への魅惑へいざなうのです。

だから芥川賞号の『文藝春秋』とは、新しい文学の誕生を寿ぐ号であると同時に、いま日本文学が達成している域を(現時点で)9つのプリズムで魅せてくれる号でもあるのです。

どうですか?
どうぞ、文学の世界へ。
お待ちしています。

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