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こうなった、いきさつ~ジブリ私記(4)

 このつづきものでは、くりかえしをいとわないことにします。
 全部を読んでくれるマメな読者はめったにいなかろうし、同じ事件、同じ光景を何度でもすこしずつさまを変えて描くのはこのつづきものの「試み」にふさわしいと思うからです。
 なのでこれから何度でもくりかえし書きつけるだろうけれど、ぼくがジブリに入ったきっかけになったのは宮崎さんから「お前には才能がある」と言われ、「だからお前はジブリに入るんだ」と独特な言い方で、宮崎駿本人からジブリ入社を口説かれたからなのでした。
 その前段になるいきつさについては『東小金井村塾』に書きました。有料記事にしてあるので、無理に購入して読んでくれとはいえないけれど、かいつまんで言うとジブリではあるとき(30年も前の話だ)アニメ演出家になりたい若者を集めて高畑さんが塾長になり一年間塾を開講した。それが『東小金井村塾』(第一期)なのでした。
 この塾は日がたつにつれて、塾長から塾生へ向けてアニメの何かを教えるというよりは、高畑さんと塾生が対等な立場で議論をかわす機会がふえていった。この話し合い・討論をとおしてぼくは悪目立ちしてしまい、その噂が塾の場をこえてスタジオにまでひろがったらしく、ぼくという人間の存在に関心をもった宮崎さんが、塾の終了をまってぼくをジブリへとスカウトした、というふうになったわけです。

 ジブリが社員制度を導入してから何年かは、アニメーターや美術、仕上げといった部署の新人募集はこれまでしてきたけれど、演出という区分で採用されたのぼくが初めてだったろうか。
 翌々年に今度は宮崎さんが塾長になって『第二期・東小金井村塾』が開かれ、その塾から何名か採用されることになったらしい。らしい、と言うのは、彼らが採用された前後にぼくは2年のちょっとでジブリをやめてしまったし、彼らと顔を合わすことになってもぼくは彼らに何も伝えることがないくらい、『ジブリという労働』にうんざりしていたのでした。

 ジブリなりアニメなりの事情を多少しっているひとなら、高畑勲というひとが日本アニメ界随一の論客として知られていることをご存知だろう。高畑さんが頭の回転が早いというより、粘り強く・しつこくひとつのテーマを考えをのばしていくのが得意なタイプだった。宮崎さんにとっては一生敵わないと思わされた人物だった。
 そんなひとを相手に議論を闘わしたのだから、塾生をふくめジブリのひとたちは驚いたらしい。

 そういうわけで、ぼくはジブリに入社したとき、宮崎さんから「逸材くん」という、はた迷惑なあだ名をたまわり、困ってしまった。
 宮崎さんがどんな思惑でぼくを雇ったのか、あらためて聞いたことがないし、もう30年も過ぎてしまったのだから本人も覚えていないだろう。
 どういうつもりだったのだろう。
 ただ、あのころからすでに、ジブリの後継者探しは始まっていて、その『ひとつのコマ』としてぼくが雇われたことは確かだろう。
 実際にモノになるかどうかはともかく、面白そうだから雇ってやれ、ぐらいの感じだったのだろう。

 ぼくはぼくで、宮崎さんから口説かれ、「面白いことが起こった」と思い、当時大学生だったぼくは進学先の大学院も決まっていながらそれを蹴って、ジブリ入社を決めた。大学院は何年後にでも入れるけれど、ジブリに入れるのはいましかない!というなんとも軽薄な理由からだった。

 その当時のぼくにとって、ジブリは大した存在ではなかった。
 高校生ぐらいのころまではいっぱしのジブリファンだったが、大学に入学してから浴びるように映画を観まくったころには、世の中には計り知れない映画がごまんとあるのだと思い知り、そうなってみるとジブリ映画はその中の『ワン・オブ・ゼム』にすぎなくなっていた。ぼくの中のジブリの位置はそうとう下がっていた。

 だからジブリのアニメ塾に入塾したときも、ぼくにとってジブリも高畑塾長も恐るべき存在でもなんでもなかった。
 むしろかつて崇めていたジブリの、その頭脳ともいうべき高畑勲とどの程度議論を交わせるか、それを試してみたい心算で塾に応募したのでした。十代のころの自分を最終的に抹殺するための儀式のようでもあったのでした。
 もしあのとき塾長が高畑さんではなく、宮崎さんだったら応募していなかったと思う。「アニメ界随一の論客」を相手にして自分を試したいという不遜な気持ちで応募したのでした。

 そうとう生意気な若造だったわけですね。
 そしてその若気への精算は30年経ったいまも続いている、それが人生が課してきた復讐なのでしょう。




つづきます。



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