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他人の街Reprise またはUnnatural City

特に都市においてのお話です。

他人の街

見慣れた風景、見慣れた街を歩いているとき、ふと気が付くといつの間にか迷子になっているような感覚を覚えることはないでしょうか。
勝手知ったる自分の街が、見知らぬどこかの他の場所になってしまうかのような感覚を覚えたことはないでしょうか。
「こんなところに自分は住んでいただろうか」「わたしはここに慣れ親しんでいない」という思いに囚われたことはありませんか。

また、「自分が街から忘れ去られた」という思いに駆られたことはないでしょうか。この街の誰も自分を知らない、誰にとっても自分は他人でしかないという思いに囚われたことはないでしょうか。

自分が暮らしている街のど真ん中で、あるいは親しい友人と楽しく会話していたはずの次の瞬間に、「わたしは誰にも知られていない」とか、「わたしは誰ともこの場を共有していない」という感覚に陥った経験はないでしょうか。

この街に棲んでいるはずなのに、迷子ーLOSTーになってしまう気分。
身の周りにいる誰とも一緒にここに住んでいない気分。
誰にとっても全ての人が、自分にとって他人に感じられる気分。いや、自分がまわりの人にとってどこまでも他人でしかないという思い込み。

自分のことを誰も知らない街を求めて都市にやってきたのに、どうしようもない孤独感、一人きりでこの世にいる孤立感に囚われてしまう。そんな経験はありませんか。

Unnatural City

それは、自分一人の個人的な気分なのではなく、「都市の空気」としてそのような雰囲気を街が作り出し、棲む者を染めていってしまう「瘴気」のようなものによる「症候」かもしれません。

特にコロナ禍……COVID-19によって直接誰かと顔を合わせることなくコミュニケーションを採らざるを得なくなる事態に陥ってから、その「瘴気」はさらに蔓延してきたのだと、そんな気がしてなりません。
感染症が、都市において希薄だった「絆」をさらに引き裂いてしまったのかもしれません。

まわり中に人がいるからこそ陥る、自分だけが迷子になった、LOSTしたというその印象は、あなただけのものではないのです。ふと気付けば誰もが直面するものなのだと思われてなりません。

突然、自分が見知らぬ他人になった気がする。
それが、都市で暮らすときに陥りやすい「やまい」ではないでしょうか。

「わたし」が「あなた」「だれか」と街を共有するということ

わたしたちにとって「相手の立場になって考える」ことはそう簡単なことではありません。「わたし」と「相手」は異なる人間です。たとえそうして「相手の立場になってみる」ように自分を仕向けても、得られる経験や感情をそっくりそのまま体験できるわけではありません。

しかし、わたしたちは「相手が今いる場所に身を置き、その場所から環境を、街を、世界を眼で見て知覚する」ことはできます。相手と同じ位置に眼を移動させ、そこから相手と同じ方向に身体と目を向けることによって、つまり観察点を一致させることによって、「わたし」と「あなた」と「だれか」は全く同じ場所から同じ方向を向いて見ることができます。

こうして「わたし」と「あなた」と「だれか」は「視え」を共有することができます。わたしたちが共有するのは「視え」だけではありません。「聞こえ」「臭い」「雰囲気」といった、環境が様々にわたしたちに提供してくれる知覚情報を、同じ観察点に身を置き同じ方向を向くことによって得ることができます。

同じ観察点に同時に何人もの人がいられるわけではありません。一つの観察点を占める身体がある以上、その観察点は「順番に」その場所に立てるようになっています。
それでも、「今この瞬間」だけが「視え」「聞こえ」「臭い」をとらえる全てであるということはありません。時間がずれても……いや、時間がずれているからこそ、「わたし」と「あなた」と「だれか」は「同じ情報」を得ることができ、同じ情報を共有することができます。

街が共有できなければ陥る「孤独」

それができなくなったとき、わたしたちはどうしようもない孤独に、孤立に追い詰められるでしょう。その時何が起きるのか。
そうした「緊急事態」に陥っている人は数多くいるのだと、そう思えるのです。

「わたし」と「あなた」と「だれか」が知覚を、知覚情報を共有すること無しに、その「孤独感」は消えることはないでしょう。
知覚を共有できない状態はいずれ自身をむしばみ、時に反社会的行動を起こしたり、時に殻に閉じこもらせたり、体調不良を起こして倒れたりする原因にもなるのです。

一方で、「余計な絆を切り離して生活する」スタイルも、都市では定着しつつあると思われます。その生活スタイルは建築や都市計画にさえ組み込まれ、逃れることができないものになっているかもしれません。

解決策として、知覚を共有するやり方を復活させるという方法があります。もし、知覚を共有しているのなら、「わたし」と「あなた」と「だれか」は、同じ街に暮らしているのならば、いつでもどこでもつながっています。
つまり、「しがらみ」のある生活を送ることになるでしょう。

しがらみと付き合うか、孤独感と付き合うか。
より「やまい」として厄介なのは、孤独感でありましょう。それとわたしたちは付き合いきれるのでしょうか。

いずれにせよ、都市はタフな環境です。

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