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"作品"に救われてきた


こんばんは。


私は今まで多くの作品に救われてきました。


そして、一つの仮説として
作品に救われていると思うことが自分を救う
のではないかと思ったのでその話をします。

"作品"というのは今は音楽とか映画とかいわゆる創作物のことを指していると思ってください。


"作品"に意味はあるか


結論から言うと意味はあります。


そもそもなぜこんなことを考えたかというと
「作品は娯楽で意味はないのでは?」
と思うこともあったからです。

そう思うと何が起こったかというと
「娯楽に時間やお金を費やしていたら生きていけないのでは?」
に思考が変換されました。

「意味なんか無くていい」
と考えられる人っておそらく人生が充実していて
娯楽に対する捉え方がそもそも違うのだと思います。

でも気づいたんです。
自分は「その娯楽が生きる上でめちゃくちゃ大事だし、それが無かったらもう死んでいたかもしれない」って思う側の人間だったことに。


意味というのは"生きるのに必要か"
ということだと思います。


それは人によって様々あると思いますが、
自分にとっては必要なことで、
必要だと思う人が一人でもいるのであれば、
"作品"に意味はあるのだと思います。


その一人が死んでも構わない世界なのだとしたら
この世界そのものに意味はないので大丈夫です。


作品の何に救われてきたか


作品の役割として、ざっくり分けると

・気分の転換
・新しい考え方を得る
・それらによる依存

があると思っています。


気分の転換


人間には気分があります。

↑いや、馬鹿みたいなこと言ってるようだけど、この自認って意外とできていない人多い気がします。

自分は最近までできていませんでした。

まさにこれで書いた時なのですが↓


「気分が落ち込むなんてものは、自分の向上心の低さから生まれる弱さだ。」
と思っていました。


でも、明確にあります。存在します。
理由も分からないけど、やる気が出ないときとか、
体調は悪くないけど、体が動かないとか。
それが長いことずっと続いているとか。


全然あるんです。
あっていいんです。


そんな時は馬鹿みたいに明るい映画を観たり、
思いっきり泣ける漫画を読んだり、

その時間にすら罪悪感を覚えてしまうものですが、
全然必要な時間です。

人間の心の仕組み的に必要なプロセスです。

他人より劣っているのにそんなことしてていいのかと
思ってしまうときもあるかと思いますが、大丈夫です。

他人より劣っててもいいし、その上で作品に触れてもいいです。


新しい考え方を得る


私が思う"作品"とは、

人がその人だけの人生の中で
内側から放出するように出した表現

だと考えています。

しかし、そのひねり出されたものには必ず自分の人生の糧になる考えが詰まっています。

そんな高尚なものじゃなくて例えば、
「うんちうんち!」みたいな下品な一発ギャグからも

「笑えるのであれば上品である必要はないな」とか
「つまんないけど、これを面白いとする人がいるということは人間は価値観の違う生き物なんだな」とか

なんだって良いので勝手に糧にすればいいと思います。

放出とかひねり出すとかうんちとかのワードが続いててなんかアレですねすみません。


おそらく自分は作品を享受するときに、
「何か得るものがないと罪悪感を感じてしまう…」
という経験があったからそう思うようになったのかもしれません。

でも、今はそうやって得るものを探すことも作品の楽しみ方でもあります。


元々はそんなこと考えなくても、メッセージ性の強い作品には心を持っていかれて踏ん張ることができました。


それらによる依存


それで、好きになって依存してしまうんですよね。

でもそれで踏ん張れるんなら良いことだと思います。

好きなアーティストの次の作品に希望を見出して、それが糧になればそれでいいです。


救われるというのは踏ん張れるために必要なことなのかもしれません。


それが、強制ではないことも作品の特徴だと思います。

依存するかしないかは受け手が決めていい。

自分勝手に救われていきましょう。


作品で世界は変わるか


結論から言うと変わります。


世界とは何かというと"自分が選択肢を持つ"ことだと考えています。

そのためにみんな少しでも争いがないようにしてるんですよね。

その選択肢を奪われない暮らしをするために。

「作品は誰しもが選択肢を持てる世界になってから作ればいいじゃないか」
と思うこともありました。

でも逆でした。
作品があるから世界が成り立っているんだと思います。

作品は人を救うからです。

踏ん張る力を与えて、希望なり生きる意味なりを与えて、それのために世界を構築しようとするからです。

もちろん人によって、糧が作品じゃなくてもいい。

さっきまでは"作品"は音楽や映画等に位置づけでいましたが、別にそうじゃないものを作品と捉えてもいい。

とにかく人が生きる理由がありきで世界が作られているということです。

作品から得た"感動"は生きる理由になり得ます。
根拠は自分がそうだからです。


世界から争いをなくしたり、平和な世界にすることが人間が生きる理由じゃない。

人間が生きる理由を見つけたから世界をそういう風にしたいというだけ。


人を殺すことだけが生きる理由だ
という人もいる。


人によって違うんだから
自分の生きる理由で世界を変えればいい。


作品に救われてきたと思うことが自分を救う


冒頭に話したように、
作品に救われてきたこと、
今こうしてnoteで作品を作っていること
を肯定しまくっていたら心が軽くなったので共有したいと思いました。

あとやっぱりこういうことって他人に理解してもらえないので、
自信がなくなってしまうんです。

映画観たり音楽聞いたりするのが生きる理由です。

って理解されないし、

「ふーん、で、マネタイズとしてはどう考えてるの?」

って話をみんなしたがる。

「お金を生み出すための仕組み」は考えるのは楽しいしなんならそれ自体が"作品"になり得ると思うけど、

「お金を生み出す作品でないとダメ」は受け入れられない。

今、作品を生み出している人も、
今、他人の作品を浴びている人も、

お金になるとかならないとかとは離して考えないと焦りという悪魔に取りつかれて踏ん張る土台から降ろされてしまう。

だから自信をもって作品を生み出して、作品を浴びればいいと思う。

そう思えたら自分を救えるのではないかと思います。


救われてきた作品


私が救われてきた作品をいくつか紹介します。

BUMP OF CHICKEN

最高。

歌詞がとにかくやばい。

こうして自分が語っている考え方もBUMPの影響が大きいです。

BUMPの歌詞は色んな言葉の表現を使って、"自分"に訴えかけてきます。

他のアーティストもそうかもしれませんが、BUMPはそこの執念がすごいです。

否が応でも自分事にさせようとしてきます。

その曲達と自分を紐づけ、自分と向き合わされ、自分が自分を救うという体験をさせてきます。

言い方に難ありかもしれませんが、だからこそ大好きです。

でも一時期は曲を聴くのもつらかった時があります。

BUMPから得た考え方と現実で自分がしていることの乖離に
"考え方"のほうを疑ってしまいました。

そして、現実的じゃないと思ったこともあります。

でも、本当に現実とかいうクソみたいな虚構から足を踏み出したときに支えてくれていたことに気づきました。

ありがとう。


リーガルハイ


ドラマです。

面白いっていうのも一つの理由なのですが、
凝り固まった価値観をほぐしてくれた作品です。

片方だけの価値観しか持っていないと、
逆につらいことって多いことに気づかされました。

どんな人にもそれぞれ価値観があって、
その違いを押し付け合うことで人は争います。

一見、片方が良い人で片方が悪い人に見えても、それぞれに価値観があってお互いにその価値観を守っているだけなんです。

そう思うと例えば何か事件のニュースを見たときに、頭ごなし感情を揺するのではなく両方の立場に立って考えるということを癖づけることができるようになりました。

実際にそのニュースも後に「被害者だと思っていた人が実は…」なんてこともあります。

その時にいちいち感情が揺すられてたら自分がつらいです。


その他にもありますが、このくらいにしておきます。


皆さんはどうですか?

作品について色々な考え方があると思います。

救われた作品なんかがあれば教えてもらえたらと思います。





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