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古代ローマ史、カエサル、ガリア戦記について

 解説充実の本編はこちら→カエサル『ガリア戦記 第1巻』第1回

 Galliaのllは二重子音なので発音は片仮名で書けば「ガッリア」に近いが、検索でヒットしやすくするように題名のみ暫定的に「ガリア」としておく。

カエサル

 日本史の動乱期といえばまず戦国時代の名が挙がるように、ローマ史の激動の時代といえば共和政末期(前2世紀後半-前1世紀中盤)の知名度が高い。

 ガーイウス・ユーリウス・カエサル(Gāius Jūlius Caesar, 前100頃-前44)はそんな時代に生きた将軍・政治家だった。
 その代表作『ガッリア戦記』(Bellum Gallicum)はカエサルが将軍としてガッリア地方(現在のフランス・ベルギー・スイスを中心とした広大な地域)で経験した征服戦争の記録である。

 無論そこには戦争の犠牲や惨禍があるのだが、ローマ人やガッリア人の生きた証としてもガッリアの地理・文化・言語の資料としても価値が高い。
 特に多数記録されている部族名や地名などはガッリア語の直接文献の少なさを補完するラテン語経由の間接資料としても重要な意味を持つ。
 文体も簡潔で語順もOV(目的語-述語動詞)配列や動詞末位が多く、ラテン語原典読解の入門に適した作品として知られる。

 今回は翻訳の前提としてローマ史、作者、時代背景について簡単に述べ、読者の理解の一助としたい。次回以降、対訳文献を投稿する。ガッリア戦争の始期についても言及する(詳細な経過などは別の機会に譲る)。


概要

 カエサルの生涯について最も重要なのはローマが共和政から帝政へと移行する過渡期を生きたことである。
 ローマは王政の小邑として始まったといわれているが、早くに共和政に移行し、前1世紀にはすでに地中海の超大国となっていた。
 しかし同時に内外諸都市との対立を抱え、様々なひずみによる内戦の危機が続いていた。

 カエサルは特に元老院に属さない有力平民の支持を背景に台頭し、ガッリア戦争に代表される数々の戦いで勝利を収め、無産層救済のための農地改革や太陽暦の導入も行った。一方で財産の獲得や権勢の拡大に余念がない人物でもあった。
 さらには終身独裁官という地位に就任して新たな政治体制を模索したが――それは無論野心のためでもあり、新たな時代のためでもあっただろうが――多くの反発を呼び込み、最後は暗殺者の刃に倒れた。

しかしその遺志はカエサルの姪の息子にして養子となったアウグストゥス(Augustus, 前63-後14)に受け継がれる(この名は前27年に贈られた呼び名だが名前の詳細は省略)。彼はいくつかの戦争を経て乱世を終結に導き、共和派に配慮しつつも実質的な帝政への道を開いた。

 アウグストゥスは形式的には皇帝位を創設したわけではないが、実質的にその状態を形成し、類稀な統治能力によってローマに安定をもたらした。
 また後3世紀にはアウグストゥスやカエサルが正式な統治者称号となったため、遡って初代皇帝と見なされている。
 前31年に腹心の部下アグリッパ(Agrippa)と共同して対立するアントーニウス(Antōnius)やアエギュプトゥス女王クレオパトラ(Cleopatra)を破り内乱終結、翌年凱旋式を挙行、前27年に元老院からアウグストゥスの尊称を贈られ、その年が実質的な帝政開始と見なされた。
 カエサルはさしずめ"第0代皇帝"的な位置づけといえるだろうか。

 なお帝国というと典型的には皇帝が治める国が想起されそうだが、歴史学では多民族から成る広大な領域を持った大国を帝国と呼ぶ用法がある。
 加えて簡略化も兼ね、王政期や共和政期も含めた古代ローマ全体が(古代)「ローマ帝国」と呼ばれることもある。
 正式な国号は帝政期も含めSenātus Populus-Que Rōmānus(セナートゥス・ポプルスクェ・ローマーヌス)「元老院とローマ市民」(SPQR)だった。

 以下、特にカエサル・国原(2009)、本村凌(2017)、木村正(2018)、『世界史の窓』を参照して記述する。


古代ローマの歴史

 ローマ(Rōma)は古代イタリア中部・ラティウム地方(Latium)の小さな都市国家として始まった。
 伝説によれば前8世紀中葉に王政国家として建てられ、様々な部族の連合を経て、前6世紀末に7代目の王を追放して元老院を中心とした共和政に移行したといわれているが、初期史については不明な点が多い。

 考古学・言語学によればラティウム文化という特有様式を持った要素は前1000年頃にはすでに見られるようで、印欧語族イタリック語派の言語(ラテン語もその一派)もその頃には定着していたといわれるが(文献記録の出現年代とは一致しない点に注意)、歴史の常として何をもって時代の区切りとするかは難しい。
 古代に伝承されてきた王や初期史は神話的要素を多く含むため、当然実際の歴史としてそのまま受け取るわけにはいかない。
 ただ、近年の考古学を交えた発掘研究によってその一部、特に王政期後半については史実がある程度反映されているという説も有力になってきているようだ。

 ともあれ重要なのは古代ローマが長く共和政だったことである。
 王を追放して共和政に移行した歴史からも窺えるように、当時の人々、特に元老院(senātus, セナートゥス)を構成する議員は独裁を嫌った。
 常設の最高官職執政官(consul, コンスル)が任期1年かつ2名セットで任命されていたのもその一環である。
 他の公職も多くは定員が複数で任期が短かった。
 国難に際しては任期半年の独裁官(dictātor, ディクタートル)が選出されることもあったが例外にすぎない。
 この「王の出現の回避」は非常に重要なので覚えておいてほしい。

 もっとも共和政と民主政は必ずしもイコールではない。
 特に初期共和政ローマは貴族(patriciī, パトリキイー)が元老院を独占しており、共和政ではあっても寡頭政的な傾向が強かった。
 そのため平民(plēbēs, プレーベース)の間では徐々に権利の保証を求める声が高まっていく(軍役で平民の重要性が増していったことも関係していた可能性があるかもしれない)。


ラテン語の記録

 ラテン語講座1を参照。古代イタリア半島には多種多様な言語があった。ラテン語の記録は前7世紀末~前6世紀初頭頃から現れるが、その遥か前から印欧語族イタリック諸語の話者は存在していた。


貴族と平民の対立と妥協

 伝承によれば共和政移行後の前494年、平民は聖山(Sacer Mons, サケル・モンス)に退去して独自に民会を設立し、平民を守る護民官(tribūnus plēbis, トリブーヌス・プレービス)を選んだ。元老院側も対立を避けるために護民官の不可侵性と元老院決議の拒否権を承認し、民会の存在も認めた。
 前367年のリキニウス・セクスティウス法(Lēgēs Liciniae Sextiae, レーゲース・リキニアエ・セクスティアエ)によって執政官は貴族と平民から1名ずつ選ばれるべきことが定められた。
 前287年のホルテンシウス法(Lēx Hortensia, レークス・ホルテンシア)によって民会(平民会議)で決議された法は元老院立法と同じ効力を持つことが決められ、身分闘争は一応の終結を見る。
 そして旧来の貴族・平民という区分は次第に曖昧になっていった。

 しかしそういった動きに歴史的意義があったのは確かだが、貴族も平民も平等な民主政が成立したわけではない。
 やはり元老院を中心とした有力者の力が強かったようで、勢力を維持した伝統貴族と平民起源の元老院階級を合わせた貴族層(nōbilēs, ノービレース)が新たな上流階級を形成していったが、"実質的な意味での"貴族と平民の妥協と均衡はやや限定的だった。

ローマ帝国を象徴するロゴ (author: Ssolbergj CC BY 3.0)
現代人の作品。
S. P. Q. R. → Senātus Populus-Que Rōmānus「元老院とローマ市民」
ローマの正式な国名。
栄光の象徴である月桂冠とローマ最大領土の組み合わせ。

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ローマの覇権と内乱の1世紀

 ローマは前3世紀にはイタリア半島をほぼ勢力圏に収める強大な国家となり、シキリア島、サルディニア島なども属州とし、現チュニジア沿岸部にあったフェニキア系の大国カルターゴーとの大戦にも勝利した。

 前2世紀には長く勢力圏を接していた北イタリアのケルト系諸部族にも勝利し、前2世紀中盤にはカルターゴーを滅亡に追い込み(これはかなりの惨劇であった)、同じ頃ギリシャ圏であるマケドニア王国やギリシャ諸都市国家をも属州とした。

 ローマが強かった理由の一端は傭兵よりも市民兵が中心で士気が高かったことをはじめとする軍制にあるといわれている(当時の政治的発言力は兵役と関わっていることが多かった。兵役義務のない女性や外国人の参政権の欠如はそれと関係していたとも考えられる)。

 後世、後1世紀の歴史家皇帝クラウディウスはローマ史を振り返り、敗れた者もローマに迎えられ得たことを成長の要因として挙げた(タキトゥス『年代記』11. 24。もっともローマが常に寛容だったわけではない)。

 また奴隷の解放も一般的で、被解放自由人(解放奴隷)の子世代は生まれながらのローマ市民権を有した。
 無論奴隷の扱いには時代・領域・個人などごとに大きく変動し得たし、解放されず過酷な扱いを受けて死んだ例も多かったので、これも常に寛容とは言い切れない。平和になると供給が減るため帝政期には多少法律面でも権利が改善されていった。

 しかし超大国化によって平和が訪れたわけではなく、各地の反乱や周辺諸国との対立も抱え、内部的にもむしろ社会的矛盾が拡大していく。
 貴族は各地の有力者と関係を強化し、官職(特に属州総督)について財を成し、広大な地域を実質的な私有地のように囲い、大量に確保した戦争奴隷による大農場を経営し、立法権の占有を試みて力をさらに増していった。

 一方、ローマの兵士も故郷では農民や職人だったりしたのだが、相次ぐ広大な地域での兵役で働き手を取られたり、貴族による大農場経営や海外からの安価な穀物の流入によって中産階級が弱体化し社会不安が増大した。

 領土が広大化したため従来の元老院による共和政も十全に機能しなくなっていった。属州の内政は基本的に属州総督や各地の都市議会に任せ、属州税や補助兵供出義務を課す形を取っていたようで、それ自体は柔軟といえる面もあるのだが、ローマ上流階級の政争や私益のための運営により、大局的な統治ができなくなっていった。

 歴史に名高い護民官ティベリウス・センプローニウス・グラックス(Tiberius Semprōnius Gracchus, 前163-前133)は困窮した人々を救うために民会支持を集めて農地改革を計画したが、元老院と対立して殺害された。この時期頃からローマは後に内乱の1世紀と呼ばれた動乱の時代に突入する。
 その弟ガーイウス・センプローニウス・グラックス(前154-前121)も護民官として活躍し、カルターゴーの故地に新植民都市を建設するなどの実績を挙げたが、同じように自殺に追い込まれ農地改革は頓挫した。


閥族派と平民派

 前2世紀には元老院議員を中心とした保守層の支持を背景とする閥族派(optimātēs, オプティマーテース)と、議員ながら非元老院階級層の支持を背景に政治権力の増加を図った平民派(populārēs, ポプラーレース)の対立が顕著となっていた。

 閥族派と平民派の対立は単純な身分闘争ではなく、元老院内での権力闘争の側面もあり、派閥の移動も流動的だった。
 平民派は非元老院階級の支持を背景とした元老院議員のようなもので、単なる平民ではない。
 閥族派も平民派も様々な理由で平民支持を得るために動いた例がある。

 平民派議員の有力支持層は非元老院議員ではあるが裕福な騎士階級(equitēs, エクィテース)である。これは「騎兵」(複数形)という意味だが、社会階層としては「(ローマ勢力圏では経済面で育成が難しかった)騎兵になれるほど財力のある人々」と考えればよい。
 古くは貴族を含んでいたようだが、次第に非元老院議員の有力平民という位置づけとなりこの時期に至っていた。
 通常の意味での平民層のための行動を最優先目標とした元老院議員がいなかったわけではなく、前述のグラックス兄弟はその突出した例である。

 両派閥で最も重要なのは前2世紀-前1世紀に生きた平民派のガーイウス・マリウス(Gāius Marius, 前157-前86)と閥族派のルーキウス・コルネーリウス・スッラ(Lūcius Cornēlius Sulla, 前138-前78)である。

 マリウスの重要な事績としては軍制改革がある(マリウスの軍制改革)。
 その中核は兵役による市民兵に代え、志願兵を職業軍人として雇用したことにある。これは以前から兵役者を出した家に与えられた補填金を直接兵士の給料に代えたのだが、志願制への変更がポイントで、農民は兵役から解放され、貧困層は職業を得た。
 そのため弱体化していたローマ軍は再び精強となり、しかし勝利により一獲千金を狙える優秀な将軍の私兵としての性格も持つようになった。
 しかしながら前述の社会不安が全面的に解決されたわけではなく、依然貧富の差は問題で、私兵化と政治対立が相乗して内戦の危険も増した。
 マリウスは数多くの戦争で将軍として勝利したことで民衆から絶大な支持を受け、何度も執政官に当選して権勢を振るった。

 スッラはまずマリウスの副官として台頭し、将軍として数多くの功績を挙げ、閥族派の支持を背景にマリウスと対立した。
 両者の争いはやがて深刻な内戦と血で血を洗う粛清劇を生んだ。

 しかし前86年にマリウスが亡くなり、2年後に後継者のルーキウス・コルネーリウス・キンナ(Lūcius Cornēlius Cinna)も事故死し、形勢はスッラに傾いていった。


パトローヌス(保護者)とクリエンス(被護民)

 ローマの社会を語る上でもうひとつ欠かせないのがパトローヌス(patrōnus, 保護者)とクリエンス(cliens, 被保護民)の関係である(クリエンスの複数形はclientēs「クリエンテース」)。
 これらの語にはいくつかの用法があるが、一般的には有力者との相互契約による保護・被保護関係をいう。
 パトローヌスはクリエンスを保護し、代わりにクリエンスはパトローヌスを支援する義務を負った(関係の度合いは同盟に近いものからやや従属的なもの、隷属に近いものまで様々)。

 多数の被保護民を抱えることは政治・経済活動などで有利であったため、ローマの有力者は被保護民の獲得に熱心だった。
 奴隷の解放が比較的よく行われた背景のひとつにも被保護民の増加への期待があった。

 また非常に重要なこととして、海外領土の戦争で勝利した将軍も現地有力者との保護・被保護関係を結び、現地の保護やローマへの陳情代行と引き換えに政治的支援などを求めることができた。
 カエサルがガッリアの属州化を狙ったのは戦利品の獲得のためだけではなく、そうした支援関係の構築にも期待できたからだと考えられる。

 ローマ人の間でも時に有力者のクリエンスとなった層とそうした関係を結んでいない層の対立があったようで、帝政はそうした対立を抱えた住民を皇帝が包括的に保護するという意味合いもあった。


カエサルの誕生

 カエサルの生年は前100年とも前102年ともいわれる(誕生日は7月12日説や13日説がある)。
 その青年時代には前述した閥族派と民衆派の対立と事件、数多くの戦争、様々な社会問題が広がっていた。
 ユーリウス氏族カエサル家は貴族としては古い家系ではあったが、執政官経験者が少なく実力的には見劣りしていた。
 しかしカエサルの叔母ユーリアがマリウスの妻であったことが重要な意味を持つことになる。

 カエサルは政治的工作により前87年に若くしてユーピテル神官(Flāmen Diālis, フラーメン・ディアーリス)に就任し、前84年には前述のキンナ(Lūcius Cornēlius Cinna)の娘コルネーリア(Cornēlia)と結婚する。

 しかしマリウスやキンナの死によって民衆派は弱体化し、属州に追いやられていたスッラがローマに帰還したことで危険が迫る。
 スッラは保守層の代表者で、元老院の権力のために対立勢力の粛清、議員の増加、護民官の弱体化などを図った。
 カエサルにも危機が及び、命の保証の代わりにコルネーリアとの離婚を迫られるが、カエサルは拒否して属州に亡命した。ここにも民衆派としての立場を明確にする意志が見て取れる。

 スッラは前82年に終身独裁官という超法規的な地位にまで就任したが、元老院の強化が目的だったためか、意外にも数年後には地位を返上し、その後も早くに引退し死去する。彼の目論見自体は成功したが、終身独裁官として共和政を護持するというのはひとつの矛盾と限界をも示していた。

 カエサルは前78年にローマに帰還し、翌年、不正に蓄財した政治家ドラーベッラ(Dolābella)の告発演説で名を挙げ、スッラの死後もなお閥族派が優勢だった中、前69年頃には伯母ユーリアの追悼演説を行う。
 その選択には民衆派マリウスの後を継ぐという意志が込められていた。
 カエサルはそこに自身の支持基盤形成の糸口を見いだしたのである。

 同年に亡くなった最初の妻コルネーリアについても追悼演説を行った。若い女性に対するそうした演説は一般的ではなかったようで、その行動は優しさの発露と受け止められたようだ。
 前73年には大神祇官と軍団副官を務めた。しかし民衆支持は高かった一方で借金を重ね、若年期には目立つ軍事的成功にも乏しかった。


第一回三頭政治

 スッラ亡き後のローマではその部下だったマールクス・リキニウス・クラッスス(Mārcus Licinius Crassus)とグナエウス・ポンペイウス・マグヌス(Gnaeus Pompeius Magnus)の2人が頭角を現してきた。
 クラッススは莫大な財産を持ち、前71年にスパルタクス(Spartacus)による奴隷反乱を鎮圧して名を挙げた。
 ポンペイウスはヒスパーニア(Hispānia, 現イベリア半島の一部)で起きた反乱を平定して評価された。
 2人は当初保守派だったと思われるが、前70年に揃って執政官となるとスッラの決議を破棄して元老院の権力縮小を図った。

 ポンペイウスは数々の軍事的成功によって豊かな属州を拡大し、長年の悩みの種だった地中海の海賊討伐にも成功するなど華々しい活躍を続けた。
 そして前62年に東方から帰還するが、権勢の高まりを恐れた元老院はその功績を軽視しようと試み、彼はやむなく保守派と距離を置いて独自の道を模索し始めた。

 一方、相対的な功績面で劣る上にポンペイウスと対立していたクラッススはかねてより巻き返しを図り、民衆支持はあったが金銭で困っていたカエサルに目をつけ、恩を売って結託した。
 カエサルは前65年に造営官(aedīlis, アエディーリス)として派手な公共事業を行い民衆支持を拡大し、前63年には莫大な金銭をかけて最高神祇官(pontifex maximus)に当選した。
 前61年にはヒスパーニア・ウルテリオル(Hispānia ulterior, 現イベリア半島南部沿岸)の属州総督(rector prōvinciae, レクトル・プローウィンキアエ, 第一音節はrēc-説もあり)に就任する。属州総督は極めて重要な公職だった。

 そこに保守派と対立したポンペイウスが加わり、三人は前60年に相互利益を約束する密約を交わした。
 前59年にカエサルを執政官に当選させ、代わりにクラッススには豊かなシュリア総督職、ポンペイウスには東方での功績承認と凱旋式の挙行などを約束した。
 軍事のポンペイウス、財産のクラッスス、民衆人気のカエサルの三巨頭の思惑が一致したのである。

 計画は成功し、3人は実質的にローマの支配者となった。
 カエサル自身も翌前58年から5年間に渡ってガッリア・キテリオル(Gallia Citerior, 近ガッリア、現イタリア北辺)、ガッリア・ウルテリオル(Gallia Ulterior, 遠ガッリア、現フランスのプロヴァンス地方を中心とした地域)、イッリュリクム(Illyricum, イタリア東からアドリア海を挟んだ対岸地域)の3属州の管理権、4個軍団の命令権(imperium, インペリウム)、総督代理や副官の任命権などを勝ち取った。
 またかつてのグラックス兄弟の悲願だった農地法の実行にも成功する。

 そして前58年、任地であるガッリアに向かう。『ガッリア戦記』に描かれたのはこの年からの出来事である。カエサルは属州総督を延長しつつ前51年まで戦い続けた。


独裁と暗殺

 三頭政治は元々利害の一致によるものだったため、三者とも次第に独自行動が目立つようになっていった。前56年には北エトルーリアのルーカ(Lūca)で会談し意見の調整が行われるが、前54年にポンペイウスと結婚していたカエサルの娘ユーリアの死去、前53年に東方のパルティア(Parthia, イラン高原を中心とした国家)に赴いていたクラッススの戦死により瓦解していく。

 前52年、ガッリアの英雄ウェルキンゲトリークス(Vercingetorīx)は数多くの部族をまとめ上げて大規模な決戦を挑む。
 この戦いはガッリア戦争中最大規模のものとなり、カエサルはそれに勝利し支配を決定的なものとした。
 前51年には小規模な反乱が起こるが間もなく収束し、ここにガッリア戦争は終結した。ガッリア人のたどった道は部族によって様々だったようだ。
 しかし住民の多くはそのまま当地で暮らし続けていたようで、ガッリア語は後4-5世紀頃にもなお存在していた可能性が高いといわれている。

 その後、保守派のカトー(Catō)を中心とした元老院派はポンペイウスに働きかけて味方に引き込み、カエサルの失脚を図った。両者の対決は不可避となり、前49年、カエサルは軍を率いてルビコーン川を越えた(後述)。
 そして元老院派との対決にも勝利し、カトーは自害し、ポンペイウスは逃亡先のアエギュプトゥス(Aegyptus, エジプト)で裏切られ殺された。
 ガッリア戦争や元老院派との戦いはカエサルの将軍としての評価を不動のものにしたといえる。

 次いでカエサルは終身独裁官として様々な改革を断行しつつ権力を一手に集中させていく。その中には優れた決定も多かったが、一方で前59年頃から続いた振る舞いの蓄積により、元老院派のみならず市民の多くもカエサルを独裁者と見なすようになっていった。
 そして前44年3月15日、共和派の元老院議員、マールクス・ユーニウス・ブルートゥス(Mārcus Jūnius Brūtus, 前85-42)ガーイウス・カッシウス・ロンギーヌス(Gāius Cassius Longīnus, 前87/86-前42)たちに暗殺された。

 最期の言葉には諸説あり、無言で倒れたとも(スウェートーニウス『皇帝伝』Jul. 82)ギリシャ語のΚαὶ σὺ τέκνον;「我が子よ、お前もか」だったと伝わるが(ibid.)、そのシェイクスピアの戯曲でのラテン語意訳形Et tū Brūte?「ブルートゥス、お前もか」が有名である。
「お前も敵に回るのか」といった意味で、このτέκνον「子」は若年者への呼びかけだと思われる(誰を指していたかには複数の説がある)。


ガッリアの地理範囲

前1世紀頃のガッリア地方と諸部族 (PDM)
ただし部族名の中にはSuēbīなどのゲルマ―ニア系も掲載されている。

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 ガッリア(Gallia)の地理範囲については説明が必要である。
 今では単に「ガッリア」といえばイタリアから見てアルペース(アルプス)山脈以遠に広がる、今のフランス・ベルギーを中心とし、スイスの大部分、オランダ南部、ドイツのライン川以南などを含めた広大な地域を指す。

 そこには比較的早くから主に印欧語族ケルト語派の言語を話す人々(ケルト系諸部族)が住んでいた(イタリック語派のラテン語とはかなり近縁。2/83/8などの記事を参照)。
 ケルト諸語は今では少数言語で、西欧にウェールズ語やアイルランド語などが残るのみだが、古代の前3世紀頃までにはすでに北イタリア、アシア(小アジア)やヒスパーニア(イベリア半島)・ブリタンニアにも及ぶ広大な地域に広がっており、地名にも多くの遺産を残している。

古代のケルト圏
author: QuartierLatin1968, The Ogre, Dbachmann → Rob984, CC BY-SA 4.0
薄黄:ケルトの源流であるハルシュタット文化の中心地域(~前500年頃)
薄緑:ケルト圏の最大範囲(前275年頃, 白に近い部分は推移地帯で詳細不明)
深緑:現代ケルト語圏

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 一例としてライン川(英語Rhine, ドイツ語Rhein)の名は地理・音韻からしてケルト語由来だと考えられている(ケルト語派のガッリア語でRēnos, 古代ギリシャ語経由のラテン語形Rhēnus「レーヌス川」、語源は印欧祖語の*(H)reyH-「流れ」とする説が有力。EtymOnline "Rhine"などを参照)。

 ガッリアの指す範囲には変遷があり、元は北イタリアのケルト系部族が住む地域(ルビコーン側以北、アルペース山脈以南)を指していた。
 後にローマ人はケルト人がもっと広大な地域に住んでいることを知り、アルペース山脈を越えたケルト系民族の居住地をもガッリアと呼ぶようになったという経緯がある。

 北イタリア部分はガッリア・キテリオルやガッリア・キサルピーナ(Gallia Cis-alpīna, 近アルペースガッリア)と呼ばれる。つまりこの地域は一応ガッリアと名はついていても今のイタリア側なので注意してほしい。
 ローマはここに住むケルト系部族とたびたび戦ったが、前2世紀にはローマの優位が確定的となって支配が進んだ。

 イタリア本土(Italia)との境界線のひとつはルビコーン川(Rubicōn)で、本土の安全のため、属州総督が軍団を解散させずにこの川を越えて帰郷することは認められていなかった。
 有名なJacta ālea est.「賽は投げられた」(すでに運命は動き出したので前に進むしかない)は後に(ガッリア戦争終結後)カエサルが元老院との対決を企図して渡河を果たした言葉として伝わる。
 この地域は前30年以降アウグストゥスによって正式にイタリア本土(Italia)に編入された。そのため今では通常ガッリアに含めない。

 現代の歴史書では単に「ガッリア」といえば前述のフランス・ベルギー・スイスを中心とした広大な地域を指す。
 こちらはガッリア・ウルテリオルやガッリア・トランサルピーナ(Gallia Trans-alpīna, 遠アルペースガッリア)と呼ばれていた。
 ガッリア戦記の主要舞台もウルテリオル側である。
 ただこの名称にも注意が必要で、ガッリア・ウルテリオルのうちローマの属州だった範囲は時代ごとに違う。


ローマ人とケルト人

 ローマ人は早くから北イタリアのケルト人(ガッリア人)と接触し、大規模な戦闘も経験していた。
 本来の主要居住地であるガッリア・ウルテリオルのガッリア人と本格的に接したのは前123年頃、同じくケルト系のアッロブロゲース族(Allobrogēs)やアルウェルニー族(Arvernī)と対立したハエドゥイー族(Haeduī)が支援を求めてきたとき頃からのようだ。
 ローマはハエドゥイー族と同盟し、ガッリア南部、現在の南フランスを中心とした地域を属州(prōvincia)とした。プロヴァンス地方という名称ここに起源を持つ。

 民族名や地域名は時代によって変化する上に広義・狭義や自称・他称などの複数の用法があり得るので範囲は一定しない。
 他の多くの古代民族にもいえるが、ケルト系諸部族は必ずしも統一的な民族意識を持っていたわけではなく、ましてや全体で1つの国家を作っていたわけでもなく、言語・文化的な共通点を持つ漠然とした概念だった。
 部族によっては隣接するゲルマン人との境界も明確ではなかった。
 ローマ人も起源からして単一民族ではなく、後にも外国人でありつつもローマ市民権を獲得した二重国籍者のような人々もいた。

 ローマ人はケルト系民族の総称としてガッリー(Gallī)を使うことが多い。
 ケルタエ(Celtae)もほぼ同義語とされる。
 ガッリーなどもまたさらに細かく部族に分かれていた。
 ケルタエやガッリーはおそらく元々ケルト系民族の部族名の1つだったのだろう(2語の関係は詳細不明)。
 元々小さな範囲を指していた地名や民族名の範囲が拡大していくのは世界的によく見られる現象である(自称か他称かなどの事情は様々)。

 他にガッリア・トランサルピーナのケルタエ族と言語(印欧語族ケルト諸語)などの共通点を持つ人々なども現代では広くケルト系と総称される。
 ただ、何をもってケルトとするかには曖昧さも多く、文化的ケルト、言語的ケルトなどの概念がある。

 またガッリア・トランサルピーナにはケルタエ族の他にもベルガエ族やアクィーターニー族が住んでいた。
 これらの民族については他の機会に言及したい。


ガッリア戦争

 ガッリア戦争の起因のひとつはゲルマ―ニア人のスウェービー族(Suēbī)がケルト部族間の対立を収めてガッリアに勢力を伸ばし、その存在に危機感を覚えたケルト系のヘルウェーティイー族(Helvētiī)が故郷を捨てて豊かな南西の地を目指したことにあるといわれる。
 それが実行に至ればローマにとっては強大な異民族が玉突き的に属州付近に来る可能性が懸念されたようで、カエサルは押されていた部族を支援しつつそれを阻止しようとした。
 前59年の属州総督決定時や前58年の赴任当初はガッリアを征服する意図はなかったが(遠アルペース地方に連れて行ったのが全軍の一部だけだったのが最大の根拠となる)、前58年の末頃から計画を素描し始めたようだ。

ガッリア戦争略図 (author: historicairSémhur CC BY-SA 3.0)
イタリアは地図右下

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ガッリア戦記

 ガッリア戦記は全8巻からなり、前58年から1年ずつの内容が記されている。最も大規模な決戦は7巻目の前52年に起きた。
 第8巻はカエサル自身ではなく、前54年頃から加わった部下(おそらく秘書)のアウルス・ヒルティウス(Aulus Hirtius)によって追加された。そのため正式には含めないこともある。

 カエサルは前52年のウェルキンゲトリークスとの戦いに勝利すると戦争は事実上終結したと考えたようである。前51年の事件は小規模で、なおかつカエサル自身も元老院派との決戦などもあってそちらに関心の重点が向いたからか、それとも余裕がなかったためか、当人は結局執筆せずに死去した。
 (元老院派との対決を描いた『内乱記』も記しているので前者だろうか)。

 ラテン語タイトルとしてはCaesaris Commentāriī Dē Bellō Gallicō『カエサルの覚書, ガッリア戦争について』、略してDē Bellō Gallicō『ガッリア戦争について』Bellum Gallicum『ガッリア戦争』が定着している。
『ガッリア戦記』はその意訳となる。カエサル自身はガッリア戦争を表すのに本文中で形容詞前置型のGallicum Bellumやその複数形Gallica Bellaを用いている(厳密にはこれらの変化形が例証)。
 原題はC. Jūlī Caesaris Commentāriī Rērum Gestārum『ガーイウス・ユーリウス・カエサルの事績の覚書』だったようだ。
 commentāriīはcommentārius (コンメンターリウス)「覚書」の複数形で、古典ラテン語ではメモや記録を表した。コメンタリー(注解)の語源でもある。

 当時のギリシャ・ローマ文化圏では「歴史書」は散文詩ともいわれる技巧を凝らした文学作品であり、commentāriīには歴史書そのものではなく、そのための"素材"を指すニュアンスがある。
 ただカエサル自身の筆力の高さからそのまま歴史書として通用するほどのレベルになってしまった――というのが同時代の文人キケロー(Cicerō)やヒルティウスの評価だが、カエサルが本当に歴史家のための素材提供という控えめな意図でこのタイトルを付けたかどうかは定かではない。
 むしろ「覚書」というのは事績と正当性のアピールという意図を覆う建前だったともいわれている。

 執筆時期については毎年書いたという説もあれば前52年以降のある時期に一気に書き上げたという説もあるが、国原は後者の説を取る。出版もその頃に行われたらしい。
 カエサルの著作としては他に『内乱記』が現存するが、その他は散逸している。

『ガッリア戦記』の事実内容に関しては相当に正確のようで、負の面も隠さず書かれていることが少なくない。
 従軍していた同時代人も多く正確性への評価は生命線だったからだといわれている。
 しかしやはり評価の低下に繋がり得る記述を避けたりしている可能性も指摘されているので、やや後のプルータルコス(Πλούταρχος)やスウェートーニウス(Suētōnius)といった他の歴史書との対照分析を要する。
 歴史全般にいえることだが、単に没頭するに留まらない冷静な観察も必要である。

 解説充実の本編はこちら→カエサル『ガリア戦記 第1巻』第1回


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