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少し見えてきた光

笹で作った舟はどこへ辿り着くか

子供の頃に笹の葉っぱで舟を作り、学校の近くの細い川に流した。それを追いながら家に帰るというのがその時のマイブームだった。

笹の舟は最初はゆっくりと流れてなかなか進まない。かと思えば急流で走って追いかける。少しゴミが溜まっている場所で引っかかったり、また流れたり。

川が道路の下をくぐる時は、すぐに反対側まで走って、ちゃんと出てくるかドキドキして待っていた。

そんな感じで、まるで自分がその船に乗っているかのように子供ながら思っていたのかもしれない。だから毎日が大冒険だった。

私が家に着いたあと、あの笹の舟はどうしただろうか。またどこかで引っかかり、あるいは途中で分解し、ただの葉っぱとして流されたり、はたまた見事海まで流れ着いたりしただろうか。

私はあの時、確かに舟に乗っていた。さまざまな場面に出くわし、ひやひやドキドキ。
だがほとんど介入はできない。ただ見守るだけ。
まるで筋書きのないアドベンチャー映画を観ながら、手に汗握る感覚だった。

結局、私の人生も全く同じであった。

川の環境がさまざま変わるように、私の周りの環境もさまざまに変わっていった。川が上流から下流に流れるように、時間は流れた。

当然だが笹の舟に意思はない。ただ周りの環境によって流れていくだけだ。人間には意思があるが、この巨大な流れは必然でやって来る。それが事故や災害、人間関係、恋愛結婚、仕事、成功、失敗、そして死ぬ。

良いこと悪いことが川の流れのようにランダムに、しかし必然としてやって来る。

それでも人間は脳を発達させ、言葉と文字を発明し、ロジカルに考えること、あるいは経験則に基づいた行動によって、高度な技術を紡いできた。

だから急流に備えて回避策を考えることができる。沈没しないように舟を工夫できる。海まで出る最短ルートを計算できる。


それによって古代よりはましな人生を歩めているのだと思う。

生活の質は信じられないくらい向上している。その一方で心の悩みがあったり、幸福感が低かったりする。

脳細胞は2000年前とほとんど変わらないのに、頭の中に入っている情報は質も量も全く違う。
これはハードは同じでソフトの仕組みが違うということだ。

現代人は教育制度という発明により、誰もが賢くなる手段を手に入れた。もし古代人の赤ちゃんがタイムリープして現代に現れ、今の教育を受けたとしたら?たぶん遜色ないだろう。

裏を返せば、人間はたった150年の間にとんでもない環境の変化を自分達で作り出してしまっているとも言える。そしてそれは進化して対応するにはあまりにも短期間すぎたということだ。

誰かが人間は滅びる運命にあると言っていた。あながち間違っていないかもしれない。

話がだいぶ逸れた。
笹の舟の話に戻る。
人間の意思とは本当は存在せず、過去の記憶によって自動的に判断しているだけだ。

しかし、その意思と呼ばれているものによって、さまざまな技術が生まれたのも事実。そしてその技術によって生活の質が向上したのも事実。

アドベンチャー映画を観ているような人生だが、主役となって楽しむのも悪くない。毎日の出来事を客観視しながら、ここぞと言う時は舵を切る。それがシナリオだと分かっていても、それを忘れて楽しむ。

最近はそんなことを思い始めている。

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