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クオリアについて考えてみる

クオリアとは
カレーの匂いを嗅いだあの感じ
熱いものを触った時のあの感じ
可愛い子を見たときのあの感じ

厳密に言い表せない感覚

同じものを見て私の感じたものとあなたの感じたものは違う。赤いパネルを見てどう感じるか。
人によって違う。というかは確かめようが無い。
しかしきっと違うのだろう。

強引に数値化してみると、赤いパネルをみて私は5と感じたが、あなたは8と感じたかもしれない。しかし、毎回赤いパネルを見るたびに、私は5、あなたは8なのだから、会話はできる。つまり基準はそれぞれ個人の中にあり、あらゆることを相対的に理解している。例えば少し濃い赤を見た時は自分の中の基準と比較して、濃いと判断する。

だがこれはクオリアではない。

クオリアとは何だ?
痛みの正体を考えてみる。

スネをぶつけた。
電気信号が足から脳へ伝達する。
脳はそれを受け取り、痛いという感覚に置き換える。

この感覚こそがクオリアである。

ではこの感覚とは何だ?
まず言葉を覚えていない大人に痛みを加えてみる。きっともがくだろう。つまり、言葉には変換していない。

しかし「あの感じ」ということは記憶を思い出していることになる。感覚を思い出している。クオリアを思い出している。

もう一度言うが、クオリアはあくまでも感覚のこと。記憶と切り離して考える。
痛みについては一旦保留する。

感覚を思い出すとき、明確には思い出せない。イチゴの赤い感じを思い出しても、目の前にハッキリとしたイチゴが見えることはない。大体ぼんやりと、色も少しついてるようなついてないような。。

これは記憶の読み出し量が少ないか、元々記憶する時点で情報を削っているかである。

これは痛みも同様で思い出してめちゃくちゃ痛いということはない。目をつむって赤いイチゴを思い出してみる。やはりうまく思い出せない。ノイズが多いような映像しか出てこない。解像度を落とした画像のようなもの。

一方で文字や言葉、単語は割と思い出せる。これらは元々情報量が少ないからかもしれない。そうするとやはり、言葉や文字による記号化の発明によって脳は格段に情報を処理しやすくなったはずである。

クオリアは電気信号を何かに変換している。

電気信号によって脳神経が受ける刺激の量、刺激のパターン、がクオリアではないか?

つまりどこからの刺激か、その刺激の時間毎の振幅を記憶する。これは意識の仕組みと関係するが、その刺激のパターンを入力とし、過去の記憶と比較しめっちゃ痛い、あるいは今までに感じたことのない痛さ、という判定結果と共に感覚(刺激パターン)を記憶する。

あの感じとは判定結果で記号化された、めっちゃ痛いというタグと、それに紐づいている刺激パターンを記憶から読み出している。

つまりクオリアとは刺激パターンが脳神経で処理される過程(判定しタグ付けして記憶する)で別の脳神経に伝達される電気信号を受け取っている、あるいは記憶している状態ではないか。

プログラムでいえば、ログを吐き出している状態(見える化)に近い。ログはモニタ上で見れるが、脳内では別の脳神経がそれをキャッチする。それが意識であり、感覚であり、クオリアではないか。

素人ではこのくらいの想像が限界。。

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