見出し画像

2本の坂道 井上陽水、折坂悠太

ここに、2本の坂道がある。

 一つは、井上陽水が1976年に発表したアルバム『招待状のないショー』の収録曲「坂道」。


 もう一つは、折坂悠太が2018年に発表したアルバム『平成』の収録曲「坂道」だ。 


この2本の坂道は、一見、全く違うものに思える。

 陽水の「坂道」は、不安にあふれている。印象的なサビのフレーズ「誰かが上り坂と言い、誰かが下り坂と言う」は、「坂道」が個人の捉え方によって異なる意味を持つ存在であることを明らかにしている。しかし、その後続くのは「僕にはどちらかわからない 僕にはわからない」という悲痛にあふれたフレーズである。つまり、陽水の「坂道」に面している「僕」は、「坂道」を定義することができていない。「坂道」に対し漠然とした不安を抱え、他の意見を聞いても分からず、自分で解釈も判断もすることができない。「僕」は、「坂道」を登り切ることも、降り切ることも、どちらもできないだろう。たくさんある足跡を辿りながら、坂道の途中で永遠に迷い続ける。 


一方、折坂の「坂道」は、とても軽やかで、希望に溢れている。「坂道を駆け降りる」というフレーズで始まる。「坂道」を登るのか降るのか、どちらか分からない陽水の「僕」と比べると、折坂の主人公は、最初から、「坂道」は降ることだと知っている。しかし、そんな「坂道」を降る折坂の主人公は、かといって、「坂道」を下った先に何があるのかを知らない。中盤の歌詞、「きっと君は気づいていた 目的を通り過ぎたと」というフレーズが示しているように、鳥のように駆け下りる中、もう目的は通り過ぎてしまった。そこで、歌は、「坂道」を駆け降りることをやめようとする。「その角を曲が」って、「細く暗い道に出る」。 

細く暗い道は、「嘘みたい」な場所である。そんな場所なら「いつかは出会えるだろう」。予想もできない、そんな出来事と出会える場所は、実は「坂道」ではない。角を曲がらなければいけないし、細く暗い道に入らなければいけない。 


坂道を降ることをやめた折坂の主人公は、井上陽水の「僕」に、坂道の途中で立ち尽くす「僕」に、何を言うだろう。 

この2本の坂道は、実は同じようなものだ。 「坂道」を降ることや登ることは、結局、その存在を説明することはできないし(陽水)、目的を果たすこともできない(折坂)。陽水の問いに応えるのならば、「坂道」は上り坂でも下り坂でもない。どちらでもない。どちらか分からなくていい。だから、そのまま道を逸れ、角を曲がり、暗く細い道に入って仕舞えばいい。 つまり、2本の「坂道」は、拒否する対象であるのだ。何となく、果てがあると思って、坂道を登ったり、下ったりする。でも、結局のところよく分からない。分からないから立ち止まる。分からないから、角を曲がってしまう。

 「坂道」から逃げる。分からないなら、放り出してしまう。この2つの曲、「坂道」は、「坂道」からの逃走を予感する歌である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?