記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

誰もが次のジョーカーになる時代へ 『ジョーカー』(2019)

アーサーの笑い声は、途中から泣き声に聞こえてくる。
彼は笑いながら泣いていて、泣きながら笑っている。

母親のセリフにあった通り、アーサーは一度も泣いたことがない。言い換えれば、「アーサーは一度も笑ったことがない」わけである。

問い:「あなたが次のジョーカーですか?」


彼が落ちぶれる理由は、まったくもって個人の問題に集約することはできない。なのに世界は自己責任を問い、自業自得だと彼を蹴飛ばす。

この構図はもちろんゴッサムシティだけではなくて今日の世界に広がっている点は指摘するまでもない。社会システムの問題もしかり、いちばん身近な母親が「元凶」であるという顛末に完全にアーサーは「狂う」。

ここで私が気をつけていたこと(おそらく多くの人が気をつけられないこと)は、観客はアーサーに対し、「狂ったかわいそうなやつ」と他者化してしまうことだ。

でも「狂ったかわいそうなやつ」とあたかも「私はなりません」と言いかけるような人こそ、「あなたは次のジョーカーです」と言いたい。

誰しもがアーサーになる可能性があり、誰しもがすでにジョーカーである。


抵抗:「私はジョーカーになりません」


私たちは涙をこらえ、社会に食いつきながら日々を生き延びている。不安、不満、絶望、悲しみ。その頻度は人それぞれでありながらも、誰しもが持ってしまう社会システムが存在していることは否定できない。

そして厄介なのは、「私はそうじゃない」と否定する自意識だ。なんとか否定することで生きようとする。それは最初のアーサーにも重なるだろう。

しかし、それは苦行としか言いようがないほど負担のかかることで、何かの拍子に爆発してしまう。アーサーの場合は地下鉄での出来事であり、あれ以来彼は自分の別の能力に気づいたのだった。

神格化:「暴力はいけないことですか?」


彼がラストシーンのトークショーで述べた、「善悪は主観的なこと」という命題は、まさに現実の世の中に問いたいことでもあるだろう。

アーサーの暴力は悪いのか?良いのか?その善悪をつけることはできるか?そもそもつけられるのだろうか?彼は善悪の二項対立や、貧富という二項対立を超えたところに自らを置く。

それは暴力(または抵抗) という手段で、神格化することだった。

彼の行動やルックスは多くの人に影響を与えていた一方で、彼の現実自体はうまくいかない。彼はしつこく現実に向き合おうとして過去を掘り起こしたりもするが、やっぱり待ち受けるのは絶望以外の何物でもない。

母親を殺したとき、まさに「死のバレエ」を踊りながら彼はジョーカーに進化する。彼の世界に二項対立は存在しておらず、彼の世界に真理など何もない。混沌と無秩序こそ彼が神になれる条件だった

ここで恐ろしいのは、スクリーンがフィクションに思えないことだった。今もなお絶え間ない暴動を連想させる最後のシーンは、この作品がフィクションでありながら強烈なリアリズムを持っていることを実感させられる。

オチ:「なんてものはありません」


この映画のパンチライン(=オチ)はない。それをつけることは、恐ろしいことでもある。世界の終末に等しい。

この映画がやろうとした素晴らしい点は、ファンタジー(虚構)にリアリティを持ち込んだことだろう。よく言われている通り、ファンタジーこそリアルなのだから、そんなに珍しいことではないかもしれない。

もう1つの素晴らしい点は、「善悪が主観的」であるため、何も問おうとしないことだ。そこにあるのは諦めであり、アーサー、ジョーカーのリアリティーであり、社会は思ったよら難しいということだ。


病院の白い白い廊下で物語は終結を迎える。しかし、まだ白いスクリーンに私たちは好きなように新しい話を書き加えることができるだろう。The Endになり得ない含みを多く持っている。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?